宣帝紀

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死せる諸葛、生ける仲達を走らす。 ここと「泣いて馬謖を斬る」のとこは 昔、漢文の授業でやった覚えがあります。 26. 帝弟孚書問軍事,帝復書曰:「亮志大而不見機,多謀而少決,好兵而無權,雖提卒十萬,巳墮吾畫中,破之必矣。」與之對壘百餘日,會亮病卒,諸將燒營遁走,百姓奔告,帝出兵追之。亮長史楊儀反旗鳴鼓,若將距帝者。帝以窮寇不之逼,於是楊儀結陣而去。經日,乃行其營壘,觀其遺事,獲其圖書、糧穀甚眾。帝審其必死,曰:「天下奇才也。」辛毗以為尚未可知。帝曰:「軍家所重,軍書密計、兵馬糧穀,今皆棄之,豈有人捐其五藏而可以生乎?宜急追之。」關中多蒺䔧,帝使軍士二千人著軟材平底木屐前行,蒺藜悉著屐,然後馬步俱進。追到赤岸,乃知亮死審問。時百姓為之諺曰:「死諸葛走生仲達。」帝聞而笑曰:「吾便料生,不便料死故也。」 (訳) 宣帝の弟の司馬孚(しばふ)が、書状により 軍事のことを問うてきたので 宣帝もまた返書して述べた。 「諸葛亮は志は大きいが 機を見るに敏でない。 謀は多くとも、決断することは少ない。 好く兵を用いるが、権謀術数に欠ける。 十万の兵卒を率いているとはいえ、 やつは已に吾の術中に堕ちている。 必ずや破ることができよう」 (とりで)に対峙して百余日で ちょうど諸葛亮は病没し、 蜀の諸将は陣営を焼いて遁走した。 百姓が奔走してこの事を告げ、 宣帝は出兵して蜀軍を追撃した。 諸葛亮の長史の楊儀(ようぎ)は 旗を翻して太鼓を打ち鳴らし、 あたかも宣帝を 拒がんとしているようだった。 宣帝は窮した賊を逼迫(ひっぱく)すまじと考え、 こうして楊儀は陣を結び、退却した。 日数を経たのち、蜀軍の屯営地へ行き その遺していったものを観て、 甚だ多くの図書や糧秣を獲得した。 宣帝は諸葛亮が 確実に死んだものだと判断し、言った。 「(諸葛亮は)天下の奇才だ」 辛毗は(諸葛亮が死んだかどうかは) いまだ判断しかねると考えていた。 宣帝は言った。 「軍家が重んじるところは、 機密文書や兵馬、糧秣であるのに 今、蜀軍はそれらを全て放棄していった。 どうしてその五臓を損なって 生きていられようか? ただちに追撃すべきだ」 関中には蒺䔧(ハマビシ)が多く、 (ハマビシにはトゲがあるので) 宣帝は軍士二千人を遣り、 底が平らで軟らかい木の履物を 履かせて先行させ、 蒺䔧が悉く除かれると 然るのちに歩騎を並進させた。 追撃して赤岸に到り、そこで審問して 諸葛亮が死んだことを知った。 当時の百姓はこのことを 諺にして言った。 「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」 宣帝はこれを聞き、笑って言った。 「吾は生きている者を(はか)るのは得意でも 死んだ者を料るのは苦手なのでな」 (訳) 234年、蜀の丞相諸葛亮 五丈原にて病没、享年五十四。 「諸葛亮は奇策を用いない 堅実で愚直な指揮官、与し易し」 と考えていた司馬懿が、 蜀の陣営の跡地見たら 「あいつ天才だわ」と手のひら返し。 蜀軍が置いていった図書に 諸葛亮の天才ぶりが発揮された 何かスンゴイ記述があったのかな? 木牛・流馬の設計図とか? この第五次北伐ののち、蜀軍は 20年近く自発的な軍事行動を起こしません。 (蒋琬(しょうえん)が北伐を試みてはいたのですが 病気がちだったことと 博打に近い作戦だったことから みなの反対に遭い、結局 実行に移される事はありませんでした) 試合は司馬懿の勝ち 勝負は諸葛亮の勝ちでした。 後年、東晋の桓温(かんおん)が蜀に入った際に、 当時100歳を過ぎていて、 リアルタイムで諸葛亮の下で 働いていたという老人に出会い、 「諸葛孔明は現代で例えるなら誰?」と その印象を訊ねたとされます。 爺さんは答えて 「諸葛丞相がご存命の間は 特別な方だとは思いませんでしたが、 亡くなられてから考えてみると あのようなお方はもう二度と 現れないのではないかと……」 取り立ててどこがすごい? と聞かれると困るけど、 いなくなってから考えてみたら やっぱりすごい男だったのです。 司馬懿はこれ以降も冷静に 勝ち星を重ねていきますが、 唯一ペースを乱されていたのが この、諸葛亮戦でした。
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