宣帝紀

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魏・晋の視点から見た 諸葛亮の四次北伐です。 貴重な、司馬懿の「諸葛亮評」が聴けます。 21. 明年,諸葛亮寇天水,圍將軍賈嗣、魏平於祁山。天子曰:「西方有事,非君莫可付者。」乃使帝西屯長安,都督雍、梁二州諸軍事,統車騎將軍張郃、後將軍費曜、征蜀護軍戴淩、雍州刺史郭淮等討亮。張郃勸帝分軍住雍、郿為後鎮,帝曰:「料前軍獨能當之者,將軍言是也。若不能當,而分為前後,此楚之三軍所以為黥布禽也。」遂進軍隃麋。亮聞大軍且至,乃自帥眾將芟上邽之麥。諸將皆懼,帝曰:「亮慮多決少,必安營自固,然後芟麥,吾得二日兼行足矣。」於是卷甲晨夜赴之,亮望塵而遁。帝曰:「吾倍道疲勞,此曉兵者之所貪也。亮不敢據渭水,此易與耳。」進次漢陽,與亮相遇,帝列陣以待之。使將牛金輕騎餌之,兵才接而亮退,追至祁山。亮屯鹵城,據南北二山,斷水為重圍。帝攻拔其圍,亮宵遁,追擊破之,俘斬萬計。天子使使者勞軍,增封邑。 (訳) 明年、諸葛亮が天水を侵略し 祁山(きざん)にて将軍の賈嗣(かし)魏平(ぎへい)を囲んだ。 天子(曹叡(そうえい))は言った。 「西方の事は君にしか任せられない」 そこで宣帝を西の長安に駐屯させ、 雍・梁二州の諸軍事を都督させ 車騎将軍張郃(ちょうこう)、後将軍の費曜(ひよう)、 征蜀護軍の戴淩(たいりょう)、雍州刺史の郭淮(かくわい)らを 統率させ、諸葛亮を討伐させた。 張郃は宣帝に、軍を分け 雍・()に駐留させて 後詰めとすることを勧めたが 宣帝は言った。 「考えるに、前軍のみで 敵に当たる事が出来るならば、 将軍の言う通りだ。 だが、もし当たる事ができなければ、 軍を前後に分けてしまうことは 楚の三軍も黥布(げいふ)(とりこ)となる (忌むべき)所だ」 かくて隃麋(ゆび)まで軍を勧めた。 諸葛亮は大軍が至ったと聞き、 そこで自ら衆を統率して 上邽(じょうけい)の麦を刈り取ろうとした。 諸将は皆懼れたが、宣帝は言った。 「諸葛亮はあれこれ考えるが 決断する事は少ない。 必ずや自陣を安んじ、守りを固め、 然るのちに麦を刈り取るだろう。 吾なら昼夜兼行にて、二日で事足りる」 こうして巻甲(鎧を納めて)して 晨夜兼道(しんやけんどう)で上邽へと赴き、 諸葛亮は塵煙を遠望し、遁走した。 宣帝は言った。 「我々は倍の道のりをゆき、疲弊している。 ここは、兵法に明るい者であれば 貪り食う所であろう。 諸葛亮は渭水(いすい)に拠しながら かかって来ようとはしない。 これならば、与し易い」 進軍して漢陽(かんよう)に舎営し、 諸葛亮と相遭遇したため、 宣帝は陣を連ねてこれを待ち構えた。 将軍の牛金(ぎゅうきん)に 軽騎を率いさせて撒き餌とし、 兵はわずかに接触したが 諸葛亮は退却した。 宣帝は追撃して、祁山へ至った。 諸葛亮は()城に駐屯し、 南北の二山に拠って 水を断ち、重囲した。 宣帝はその囲みを攻め破り、 諸葛亮は夜中に遁走した。 追撃して諸葛亮を破り、 俘虜にしたり斬った者は万を数えた。 天子は使者を遣わして軍を労い、 宣帝の封邑を加増した。 (註釈) 魏軍の圧勝みたいに書かれてますが、 実際は重鎮の張郃(ちょうこう)を 蜀軍に討ち取られてしまうという 大大波乱が起きています。 李厳(李平)が兵糧の輸送関連で 色々やらかしたので、諸葛亮は ここでも退却を選び、 蜀書「後主伝」では 撤退しようとしたところを 追撃してきた張郃が、矢に当たって 戦死した……と書かれています。 また、魏書「張郃伝」では 矢が右ヒザに命中してしまった、と。 司馬懿の諸葛亮評は「慮多決少」。 あれこれ考えるが決断力に欠ける。 っていう感じでしょうか。 「何度も軍事行動を起こしながら 成果をあげられなかったのは、 思うに臨機応変の才略は、 諸葛亮の長所ではなかったのだろうか」 という陳寿の評とも合致しています。 蜀の乏しい国力で、険しい山々越えて 大国の魏に張り合おうというのが そもそも夢物語なのですが、 そんな中で諸葛亮は信じられない程 健闘していると思います。 判官贔屓を好むとされる我々は 負け戦とわかっていながら挑み続ける 諸葛亮の悲壮な決意に ノックアウトされてしまうわけです。
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