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234年
五次北伐──五丈原の戦いです。
諸葛亮も司馬懿も
どっちにも負けて欲しくない!
24.
二年,亮又率眾十餘萬出斜谷,壘于郿之渭水南原。天子憂之,遣征蜀護軍秦朗督步騎二萬,受帝節度。諸將欲住渭北以待之,帝曰:「百姓積聚皆在渭南,此必爭之地也。」遂引軍而濟,背水為壘。因謂諸將曰:「亮若勇者,當出武功,依山而東。若西上五丈原,則諸軍無事矣。」亮果上原,將北渡渭,帝遣將軍周當屯陽遂以餌之。數日,亮不動。帝曰:「亮欲爭原而不向陽遂,此意可知也。」遣將軍胡遵、雍州剌史郭淮共備陽遂,與亮會于積石。臨原而戰,亮不得進,還於五丈原。會有長星墜亮之壘,帝知其必敗,遣奇兵掎亮之後,斬五百餘級,獲生口千餘,降者六百餘人。
(訳)
青龍二年(234)、
諸葛亮はまた十数万の兵を率いて
斜谷から出撃し、
郿の渭水南原に塁を築いた。
天子はこれを憂えて、
征蜀護軍の秦朗に歩騎二万を督戦させ
宣帝の節度(指図)を受けさせた。
諸将は渭水の北に往きて
蜀軍を待ち構えようとしたが
宣帝は言った。
「百姓はみな渭水の南に積聚しており
ここは必ずや係争の地となる筈だ」
かくて軍を引き連れて渭水を渡り
川を背に塁を築いた。
それに因り諸将へ謂った。
「諸葛亮がもし勇者ならば
当然武功を出、山に沿って東行するだろう。
もし西の五丈原へと上れば
則ち諸軍は事無きを得る筈だ」
諸葛亮は果たせるかな五丈原へと上り、
渭水を北へ渡ろうとした。
宣帝は将軍の周当を
陽遂に駐屯させて撒き餌としたが
数日経過しても、諸葛亮は動かなかった。
宣帝は言った。
「諸葛亮は五丈原で争わんとしており、
陽遂に向かう事はない。
やつの意図はわかっている」
宣帝は将軍の胡遵と雍州刺史の郭淮を遣り
共同して陽遂の守備に当たらせ、
積石にて諸葛亮に臨ませた。
五丈原に臨む地で戦ったが
諸葛亮は進むことができず
五丈原から撤退していった。
ちょうどその時、
諸葛亮の塁に彗星が墜ち、宣帝は
彼が必ずや敗れるであろう事を悟って
奇襲の兵を遣ってその背後を衝かせ
五百余りの首級を斬り、
千余りを生捕りにし、
降ってくる者が六百余りあった。
(註釈)
関羽伝のはじめの方で、関羽が
「呂布を倒したら
秦宜禄の嫁さんを僕に下さい」
と曹操に提案したものの、結局
曹操に奪われた逸話が出てきましたが
ここに登場した秦朗は
その秦宜禄と嫁さんの子供です。
演義では、諸葛亮に対して
秦朗が偽投降の計を仕掛けるのですが
見破られて敗死するという
散々な役回りになっています。
四次北伐では、撤退しようとする
諸葛亮を追撃せんとして
手痛い反撃をくらった魏軍。
そして、3年の準備期間を経て
臨んだ五次北伐。
263年に蜀が滅んだ時に
人口94万人と書かれてるので
その中から10万もの兵を動員するのって
相当えげつない管理・統制能力です。
蜀と時を同じくして、
呉側でも孫権が魏に攻め入ってますが
曹叡の親征の前にあえなく敗退。
孫権をあてにしていた諸葛亮は
打開策を見つけられないまま
陣に引きこもり続けます…………
いざ遠征したのに、
指をくわえて見てるだけという。
これだけの描写では
諸葛亮が無能に映ってしまいます。
これは、カットされているだけで
諸葛亮も実際には
様々な手を打っているのですが
司馬懿や郭淮に読まれてしまって
膠着状態に陥っているのです。
魏延伝によれば、
魏延をこのとき4kmほど
離して布陣させてたらしいんですが
どういう狙いがあったんだろう。
諸葛亮はもう自身が
長くないのを悟って、
軍を引くことになったとき
魏延だけは肯じないであろう事を
予見していたのかもしれません。
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