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「ドア、閉まります。駆け込み乗車はおやめください」
発車ベルが鳴り響く中、道隆は階段を駆け下りた。ドアはまだ開いている。どこもぎゅうぎゅうに人が詰まっているが、少しでも乗り込めそうなドアをめがけて駆け込んだ。同時に、横を走っていたサラリーマンも割り込んできて、閉まりかけたドアに二人で競うように入り込む形になった。
「お次の電車をご利用ください」
少し語気の強まったアナウンスに心の中で頭を下げながら、ドアが最後まで閉まるようにリュックを抱えこんだ。道隆は、ラッシュアワーに通勤するようになってからそろそろ一年経つが、いまだに息苦しい満員電車は乗れば変な汗をかくくらい苦手だった。他人と妙に距離が近いのも、身動き一つ取れないのも死ぬほど嫌だ。今日も、先ほど共に駆け込んだサラリーマンのカバンの角がふくらはぎに刺さって痛い。少し身動いで、抗議の意をこめてサラリーマンの顔を見れば、驚いたことに知った顔だった。
「あ、内藤?」
「はい……、え? 道隆じゃん」
「久しぶり」
「おお、何年ぶりだろうな」
「いつもこの線で通勤してるの?」
「うん、そうだね」
内藤は、高校の同級生だった。久しぶりに見た顔は以前より細い気もしたが、そもそも内藤とはそれほど親しい仲ではなかったので、元がどうだったかもはっきりと思い出せない。
でも、そんな内藤とも、一つだけ楽しい思い出がある。高校二年の、学祭の前日だった。その年は内藤と同じクラスで、内藤と他数人とでクラス劇の大道具制作を担当していた。係になったといえども、釘を打ったり色紙をダンボールに貼り付けたりする作業が楽しいわけではなく、準備期間は遊んでばかりいた。だから前日にもなって完成しておらず、担任の馬場先生に許可をもらって夜の八時半まで居残って作業をしていた。
大方、ダンボールで出来た岩や板でできた城が完成してきた頃、廊下や他教室はすでに消灯されていた。道隆たちの教室だけが明るく、教室が丸ごと暗い闇の中に浮いているみたいだった。
「あとで教室の鍵を先生に返しに行かなきゃいけないのに、こんな暗いと危ないじゃん」
と道隆が不安をこぼすと、学級委員の田中に妙に怯えた顔をされた。
「危ないってなんだよ、怖いこと言うなよ」
「え、だって躓いたりするかもじゃん」
「ああ、なんだ、そういうことか。怪談の話かと思った」
「なんだよそれ。うちの高校にもそういう話あるの?」
田中によれば、昔、夜暗くなった廊下を歩いていた生徒が、後ろからぺたぺたという足音を聞いたことがあるらしい。その生徒は一目散に走って逃げたというが、噂では少しでも振り返ると捕まってしまい、扉が一つもない教室に引き摺り込まれてしまうという。
「なんだそれ、小学生が読む怪談みたいじゃん」
と、田中の話は笑って流されたが、その後誰も馬場先生のいる職員室まで鍵を届けに行こうとはしなかった。結局、じゃんけんに負けた道隆と内藤が二人で行くことになってしまった。
教室に施錠し、他の者が教室のすぐ横にある階段からそそくさと昇降口へ向かったのを見届けてから、二人は長く暗い廊下に向き直った。正直、道隆は先ほどの怪談を別段怖いとは感じなかったが、これほどどっぷりとした暗闇が目の前に続いていると、少し尻込みしてしまうのも事実だった。そういえば内藤は怪談に対してそれほど反応を示していなかったが、怖くはないのだろうか。ちらりと横を見れば、アキレス腱を伸ばしたり屈伸をしたり、内藤は軽快に準備運動をしていた。まるでこれから体育の授業が始まるかのような快活な雰囲気に、道隆は少々面を食らった。
「え、なに? 内藤、怖くないんだね?」
「いや、怖いね!」
ぴょんぴょん跳ねながら内藤は即答した。
「全然そんな風に見えないですけど……」
「絶対にお化けに追いつかれないように、爆走してやろうと思って」
「追いつかれないように、って……」
「ちょっと、笑うなよ」
ぶっ、と吹き出した道隆に、内藤は不服そうな顔をした。
「いいじゃん、ゴーリテキだよ。捕まらなければいいんだから」
「あははっ……」
「いいから、道隆も走ろう」
「わかったよ」
「はい、せーのっ!」
走り出す号令なら「用意、どん」じゃないのか、と笑ってしまったので、道隆は少しスタートが遅れた。しかも内藤はどんどん先に行く。道隆も思い切り走ったが、内藤は道隆と同様に大きなスクールバックを背負ったままにもかかわらず、やたら足が速かった。そういえば彼は野球部だった。
「道隆、はやく! 一人で走るのは嫌だ!」
前の方を走る内藤が正面を向いたまま叫んだ。
「じゃあちょっと止まってよ!」
「嫌だ、振り返ったら捕まるって!」
「あははは」
内藤はとことん怪談を信じ込んでいて怖がっているようなのに、怯えた空気がみじんもないことが、道隆には可笑しくてたまらなかった。
とにかく走って、なんとか内藤に追いつきそうなところで、職員室に到着した。走ってついた勢いと、一人真っ暗な廊下に残されることへの怯えから、二人して我先にと扉の中へ滑り込んだ。
職員室では馬場先生が一人で机に向かっていた。
「お疲れ様です。あら、どうしてそんなに息を切らしてるの」
「鍵、お返しに上がりました……。これはあの、廊下が、真っ暗でして……」
「あら、残る生徒がいると言っておいたんですけど。守衛さんが間違えて消してしまったんだと思います。すみませんね。今つけますね。」
「あ、ありがとうございます。遅くまですみませんでした。じゃあ……帰ります」
「はい、お疲れ様」
「失礼します……」
二人は一礼して、明かりが煌々とついた廊下へ出た。息も整い、妙に上がっていた気分も馬場先生と話して落ち着いた。
「ふぅ。なかなか楽しかったな」
「内藤は全速力で走りすぎだよ。はー面白かった……」
「だって野球部だから!」
「怖かったからじゃないの」
帰りは並んで歩いて、昇降口へ向かった。
内藤と二人で話してはしゃいだのは、あの時だけだったと思う。でも、彼のおかげで笑いっぱなしで楽しかった。まさか満員電車の中で会うとは思わなかった。
「この時間いつも混んでて大変だよね」
「うん」
「……そういや、野球は高校卒業してからも続けてるの?」
「え、野球? いや、大学の途中でやめたよ」
「そっか」
動けないせいで内藤の方に向けず、顔が見られないからか会話がうまく進まなかった。
「どこで降りる?」
「次の駅」
「本社出勤?」
「そう」
「すごいね」
「いや……。毎日長くて大変だよ」
「そうか。お互い頑張ろうね」
「おう」
次の駅で、ぎゅうぎゅう詰めの人の塊に押し出されるようにして、内藤は電車を降りた。ひらりと手を振って、出口の方へ走っていった。
その後ろ姿にも、同時に電車に駆け込んだ時にも、内藤からあの学祭前夜のような愉快さは感じられなかった。
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