プロローグ −悔悛−

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プロローグ −悔悛−

「もってあと3日、短くて今日中でしょう……」  薄暗い部屋に、そう答える医師の声が不気味にこだました。 「そんな……!! 待って下さい、母は……胃腸炎なんでしょう!? あと3日って……どういうことですか!? なんなんですか、それ……!! 意味分かりません、ちゃんと説明してください!!」  主治医に縋り付きながら、20代のその女性……深町沙紀は涙を流す。  彼女の母親が入院したのは、一ヶ月ほど前。その日、沙紀が帰宅すると、母親はぐったりとテーブルに突っ伏していた。心配になって声をかける沙紀に、母は隈の出来た顔で――どう見ても、無理な笑顔を貼り付けながら――答えたのだった。 「お母さん、胃腸炎で明日から入院することになったんだけど、沙紀一人で大丈夫……?」  精神疾患に悩まされていた沙紀が児童自立支援施設を退所したのは、15歳の時。彼女には姉がいたが、同級生からの心無いいじめに耐えきれず、施設にいる間に自殺していた。沙紀は、退所時に初めてそれを聞かされたものの、もはや涙も流れなかった。  父は離婚して消え、生まれ育った家も更地になっていた。浦島太郎が脳裏をかすめていた彼女に、唯一の存在となった母が、痩せこけた顔でにっこりと笑いながら一言呟いたのだ。 「お帰り、ずっと待ってたよ」  ……あの時の笑顔は、入院前に見せた無理な笑顔と同じだったような気がする。  笑顔で溢れていた幸せな家庭は消滅し、小さな古いアパートで始まった、母と二人きりの生活……。次々に襲いかかってくる辛い現実が、沙紀を極限まで追い詰めていった。  自分のことを棚に上げ、姉の自殺に苦しむ母を毎日のように慰め続ける沙紀。何度も精神崩壊しかけたし、この現実の世界をひどく恨んだ。恨む資格がないことを承知の上で。  沙紀が心を許せる相手は、いつも母だけだった。姉が死んだ今、沙紀の味方はこの世に母しかいない。だからせめて、母だけでも幸せにしてあげたかった。そのために必死に働いて、必死に勉強した。姉の死に悲しんでいる余裕は、次第に無くなっていった。  そして、沙紀は難関の北美大学法学部に定時制高校から合格するという、異例の快挙を成し遂げた。母の突然の余命宣告は、その矢先の出来事だった……。 「……落ち着いて下さい、深町さん。お母さんは、胃腸炎なんかではありません。お母さんは、あなたに余計な心配をかけたくなくて、我々に堅く口止めさせておりました。……彼女は、腹膜偽粘液種という病気です。それも、入院した段階ですでに、治療が出来ないほどの末期でした」  沙紀の目の前が真っ暗になる。治療ができない……? そんなことも知らずに、自分は毎日、のこのこと母の看病をしていたというのか……!? ショックのあまり、開いた口からは言葉がでなかった。 「あそこまで進行していたことを考えると、入院する前からかなり我慢していたものと思われます。今までの治療は緩和ケアと言って、病気を治すというよりも、いかに体を楽にさせるか……そこに重点をおいたものです。お母さんも、あなたに苦しんでいる姿は見せたくないと、根本治療を一切拒否されました。だから、そこまで重い病気には見えなかったんですよ。しかし、もう限界が近づいています。身内はあなただけですか?」 「……はい……」 「そうですか……。もし会わせたい人がおられましたら、早めに連絡を取ってあげて下さい」 「……わかり……ました……」  沙紀は母親の病室に向かった。母に会わせたい人……。母が会いたい人……。恐らく母は、自分以外の誰とも会えずにこの世を去ることになる。きっと、最期に会いたかった人はたくさんいたのだろうに、その誰も……お見舞いにすら来ることはない。  泣いても泣いても、身の置き所のない悲しみが沙紀を襲い、心を蝕んでいった。  病室に入ると、母の体には何本ものチューブが通され、様々な機械が取り付けられていた。沙紀はそっと、ベッドの横にある椅子に腰掛けた。 「さ……き……。……いるの……?」  どれくらい時間が経った頃だろうか。微睡んでいた沙紀の耳に、そんな声が届く。沙紀は瞬間的に覚醒し、母の手を握りしめた。 「いるよ……!! いるよお母さん……!! 私は今ここにいる!!」 「……。ごめんね……。なんで……こんな人生になってしまったのか……、お母さんも沙紀も……。結局……わからなかったよ……」 「もう……もうヤダ!! ダメ……!! もう……!! どうして……!?」 「お母さんのせいなんだよね……。全部お母さんが……」 「違う……!! お母さんは関係無いの……!! だから、そんなこと言わないで……!!」  涙で目を真っ赤に充血させながら、首を激しく横に振る沙紀。 「沙紀……、辛いでしょう……?」 「辛い……!! 辛いよ……!! もうどうしたらいいのかわからない……!! お母さんが死んだら、私は……私はどうなるの……!? お姉ちゃんもお父さんも、もう誰もいないんだよ……!?」 「お母さんが……死んだとしても、それは病気のせい。神様が決めた、運命。それでも、沙紀はこんなに苦しんでる……。受け入れられずにいる……。家族を失うということがどんなに辛いことなのか、これで分かった……?」 「そんなの、ずっと前からわかってるっ……!! もう辛くて辛くて仕方ない!! 耐えられないよ……!! お母さんが死んだら、私も一緒に死……」 「あなたに、死ぬ権利なんかない。勘違いしないで」 「……え……?」  母は、ゆっくりと沙紀の手を両手でつかみ、強く握った。 「いい、沙紀……。辛くて、悲しいことしかない人生を、這いつくばってでも生きなさい……。それは、死よりも辛いことだから。だからこそ、だからこそあなたは生き続けなければいけないの……。辛い人生を、悲しい人生を、ただただ耐えて生き抜きなさい」  母の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。 「あなたの人生はきっと、これからもずっと辛いでしょう、苦しいでしょう……。いいことなんかないかもしれないし、あっても捨てなきゃいけない。それでも決して、自分で死を選ばないこと。死んだって、社会はあなたを冷たい目で見るだけ。誰も悲しみはしない。だから、無様に生きて、苦しんでる姿を晒しなさい。そしてあなたが望んでいない時に訪れた死を、受け入れなさい。それまでは、絶対に死んではダメ……!! あなたの人生は喜びや嬉しさを感じるためにあるんじゃない……!! 勘違いしないこと……!! お母さんが死ぬのも、神様があなたに与えた試練です……!!」  試練……。そうか……。私はもう……人生に喜びを感じてはいけないんだ……。幸せを求めてはいけないんだ……。襲いかかってくる悲劇を、生きて受け止めなきゃダメなんだ、ひたすらに。混乱する意識の中でも、沙紀は意外と冷静に、母の言葉の意味を理解することができた。 「……沙紀、逃げちゃダメ……!! 辛い目に遭いなさい……!! たくさん涙を流しなさい……!! 胸を締め付けられなさい……!! あなたは幸せになんかなってはいけない……!! そしてそれでも、死んではいけない……!!」  涙を流しながらそう訴えかける母の手を握りながら、沙紀もまた、目をギュッと瞑って泣いた。 「最後にこれを……沙紀に伝えることができて……よかった……。ごめんね……」 「お母さん……? お母さん……! お母さん……!!」  病室にこだまする、沙紀の声。時間が止ったかのような感覚に陥る。間もなく母の意識はなくなり、そのまま……目覚めることはなかった。母の手を握り続けていた沙紀の手は、しびれて動かず、離すことができなかった。看護師が、医師を呼びにそっと部屋を出て行く。 「一人に……しないでよ……。かあ……さん……」  その場に崩れ落ちる沙紀の耳に、死亡を確認する医師の冷静な声が、まるで遙か彼方で話しているかのように届いた……。  命の灯火を消すのは簡単だ。もう二度と灯すことはできないけれど――。  どこからか、そんな声が聞こえた。それが自分自身の心の声だと、沙紀は気づいていなかった。  ……十数年前のある日。 『熱いぃぃぃいいっ!! あ……あぁぁあぁ、い……痛い!! 痛いよぉぉおお!!』  とある小学校に、悲痛な叫び声がこだました。その悲鳴の数十秒後には、沙紀のクラスメイト、山田花々はなかが、ぼろきれのような死体となって地面に転がっていた。  それは、たとえ遺族が見たとしても判別できないんじゃないかと思えるほど、激しく損傷した死体。顔は硫酸で焼けて粘土細工の様になり、どこが目でどこが口なのかもよくわからない。その上、全身の28カ所にナイフによる刺し傷があった。  幼き頃の沙紀は、肩で息をしながら足下に転がるその死体を見つめ、にやりと笑った。 「全部、あなた達が悪いの」
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