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佐倉春花④
とある病室のベッドの上で、その人……山崎昇平は、ゆっくりと目を開けた。彼の手を握りしめながら、あたしは言葉をかける。
「春花だよ、ショウ……!! 具合はどう? 大丈夫?」
「まずます……かな……。今日……検査だって言っていたけど、もう……終わったの……?」
「……うん、さっき……終わった」
「……それで、どんな感じだって……?」
「ショウの心臓はどんどん膨らんでて、薬の効果は出てないみたい……。でね、ショウが心臓移植を希望するなら、近日中に日本臓器移植ネットワークの適応評価委員会に、審査を依頼してくれるって。多分、後で先生から詳しい説明があると思う」
「……そっか」
ショウは、悲しそうとも苦しそうともとれる小さな声で、頷いた。
「あと……さ。……あたしたち……なんだけど」
そんなショウを見て気持ちを固めたあたしは、心に決めていた一言を彼に告げる。
「もう……結婚しようよ」
こんなプロポーズもないだろうなぁ……とは思う。だいたい、プロポーズってのは普通、男からするものだし。だけどしょうがない。ショウとの繋がりがこんなに微妙な今の状況は、もう嫌なんだ。
「あたし、堂々とショウの看病したいの。だから、もう結婚して。修士を卒業したら、博士なんていかないで就職する。問題ないでしょ?」
「ダメ……だ。結婚は……できない」
「だけどっ……!!」
「ダメなものはダメだ。……考え直して……欲しい」
「考え直すって、何を!? 今さらあたしに、他の誰かを捜せっていうわけ!? 冗談言うのも休み休みにしてよね!!」
「君なら……すぐ見つかる」
「……ショウのバカっ!! こっちの気もしれないでっ……!!」
あたしは病室を飛び出した。どうしてあたしが大切にしたい人は、いつもあたしから離れていってしまうのだろう……。どうしてあたしばっかり、こんなに苦しい想いをしなくちゃいけないのだろう。
外は、もう真っ暗だった。ふと空を見上げると、小さな星が点々と輝いている。……姉さんがいなくなったあの日の夜も、こんな星空が見えていたっけ……。
「お姉ちゃんが…………いなくなるのなんて……ヤダ……」
あの日、明日からいなくなると唐突に言い出した姉さんの言葉を、受け入れる事ができなくて……。中一にもなりながら、駄々っ子のようにヤダなんて言っちゃったんだよね、あたし……。
「すまない、春花……。しかし、私の真の姿は春花なのだ。この私は、人類の夢であり幻想。夢も幻想も儚く消え去るものだろう? ……消え去るときが来たのだ、この私にも」
「何がなんでもヤダぁっ!! どっか行っちゃうなんてヤダよぉっ!!」
……馬鹿みたいに、子供みたいに一人で騒ぐあたし。本当に、哀れな人間に見えていたことだろう……。
あたしの人生は、姉さんと共に在った。産まれたときからずっと。苦しいときも辛いときも、姉さんは当たり前のようにそばで支えてくれた。……あのいじめだって、姉さんのお陰で……。そんな姉さんが、突然明日からいなくなるなんて……想像もできなかった。
「春花、少し前までのお前は、本当に弱かった。人見知りで、人前に出ると全然しゃべれなくて、友達も少なくて、いつもいつも……私ばかりで。可愛かったけどな、そんな春花は。だけど、今はもう違う。支えられてばかりの春花じゃない。苦労の多い吹奏楽部だって、挫折しないで続いている。春花は強くなった」
泣きわめくあたしを、「強くなった」と称えてくれる姉さん。
「春花の周りには今、たくさんの人がいる。クラス、吹奏楽部、母さん……。これからステキな出会いもあるだろう。だから、寂しいことなどない。……私の役割は、終ったのだ」
「そんな悲しいこといわないでっ……!! あたし、まだまだ弱いよ……!! 人見知りだよっ……!! お姉ちゃんが必要なんだよぉっ……!! だからいなくならないでよぉぉぉぉおっ!!」
姉さんは、必死にあたしを説得しようとしてくれていたのに。本当にあたしは、最後まで駄目な妹だった。
「……確かに私は、春花の前からいなくなる。けれど、同じ空の下で、同じ地面を踏んでいるのだ。離れていても、私たちは繋がってる。もしかしたらずっと将来……またどこかで、会えるかもしれないしな」
会えるかもしれない……。その言葉が、悲しみで溢れていたあたしの心を、少しだけ軽くしてくれた。
「だから、後は安心して全部私に任せろ。春花は絶対に、レノには狙わせない。今回の実験は必ず成功させる。三回目の実験には、何が何でも移行させない」
姉さんの顔に、少しずつ影が差してきた。我慢して作っていたバレバレの笑顔も、限界を超えてきたらしい。……当たり前だけど、姉さんだって……相当苦しかったんだ。
「……これが私の仕事であり、私の生きる意味。私はずっと、春花のことを見守っ……っ……る……か……っ!!」
途中から……。姉さんの言葉が、崩れてゆく。……その表情もみるみる歪んで、どどどって涙が……あふれ出してきた。
「わ……わ……私……はぁっ!! ……ずっとぉっ……!! ……ずっとぉっ……!! 春花のことをっ……!!」
そして姉さんは、あたしのことを正面からがばって抱きしめた。姉さんのぬくもりを感じながら、あたしも泣いた。
「愛しているからな……!!」
――――。
夜空を眺めながらあの日の姉さんの言葉を思い出し、ボロボロと涙を流すあたし。
姉さんの「愛してる」という言葉を聞いたとき……。本当に、もう他に道はないんだな……って、あたしは……思えた。この先一緒に歩むはずだった人生の中で、姉さんがあたしに向けようとしていた色々な想いを、「愛してる」という言葉に集約させたんだと思う……。姉さんの言葉には、それくらいの重みがあった。
……あの後あたしは、姉さんと一緒に最後のお風呂に入った。中学に上がってからあまり一緒に入ってなかったから、久しぶりだった。つい一年前は、姉の方が凄く大人らしい身体してたのに……。気がつくと、その違いはほとんど無くなっていた。
「あたしやっぱり、一人で生きてく自信ない。全部、お姉ちゃんがいたからだし……」
姉さんと一緒に湯船に浸かりながら、ぽつりと呟く。
「なにを言ってるんだ。むしろ、私が何をした? 春花は自他共に認める努力家だ。もっと自分を信じろ」
「……だけど、部活じゃいつも先生に怒られてばっかり……」
「人は怒られながら成長するものだ。入部して半年しか経っていないお前が怒られるのは、むしろ期待されている証ではないか?」
「……でもお姉ちゃんは、ほとんど怒られてない……」
「私は改造人間だぞ? ……これは、天から授かった能力じゃない。いわば反則品。……比べること自体が、そもそも間違っている」
……違う。あたしはこのとき初めて、姉の言葉が間違っていると感じた。ゲノム編集だろうと天然だろうと、やっぱり姉さんは姉さんだ。
「……なんであろうと、人として産まれてきたら、それは人なんだよ」
あたしはポツリと呟いた。姉さんは、苦慮したように黙っていた。
お風呂から上がったあたしと姉さんは、ホカホカの身体のまま部屋へと戻った。あたし達の部屋は二階にあって、ベランダと繋がっている。姉さんはおもむろにベランダへ出ると、夜空を見上げた。
「見ろ、春花。星が……美しい」
その言葉に惹かれて、あたしもベランダに出た。真っ暗な夜空には、小さな星が点々と輝いていた。しばらく無言で星を見ていると、姉さんが……本当に小さく、独り言のように呟いた。
「これは、言うべきかどうか迷っていたんだが……。やはり、言っておくことにしよう」
「……えっ? なに……?」
「……相澤悠奈の息子なんだが、実は……今も生きているらしい」
「……そ……そっか」
どんな重大発表かと構えていたあたしは、その内容に拍子抜けした。
「興味ないのか? 会いたがるんじゃないかと思ったのに……」
「……会っちゃダメなの?」
「ダメとは言わないが、会うべきではない。……万が一恋に落ちたら、お互い不幸になってしまう」
「……どうして?」
「彼は春花にとって、生物学的には息子と同じだからだ。そして恐らく、春花が彼を好きになってしまう可能性は高い。……親近者は、遺伝的に引きつけ合うんだ。でもそれは、真の恋愛感情ではない」
……そう。あの時姉さんは、あたしにそう忠告していた。
「この先、彼と出会ってしまう可能性は低いが、ゼロではない。……もし春花が好きになった相手が相澤悠奈の息子だったら、そうと分かった時点で別れろ。……辛くても、感情で正当化するな」
「……うん、わかった……」
あのときのあたしは、この事実を……軽く見ていた。せっかく姉さんが忠告してくれたのに、あたしはそれを……生かせなかった。
「……一見弱々しく見える夜空の星も、実際は太陽よりずっと大きな場合がある。……だから、見た目は弱々しくてもいい。だが、芯は強く持て。あの星のように、消えることなく輝き続けろ」
姉さんは最後にそう言い残して、部屋へと戻った。
「……そろそろ寝るぞ」
二人してベッドへ潜り込んだところで、姉さんは電気を消した。明日なんか、来なければいい……。久しぶりに、あたしはそう思った。
朝にはもう、姉さんとお別れなんだろうか。ぜんぜん……そんな気がしなかった。電気を消した後も少しだけお喋りしてたけど、姉さんが先に寝てしまったので、あたしも目を瞑った。
隣で感じる姉さんのぬくもりも、寝息も、それからこの香りも……。全部、今日で最後なんだ。あたしは、姉さんの胸にそっと耳を当てた。トクントクンと、姉さんの心臓の音が聞こえた。
翌朝。あたしが目を覚ますと、すでに姉さんはいなくなっていた。
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