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山崎昇平①
ふと、一冊の古いアルバムを手に取った。B5くらいのサイズで厚さは1センチほど、表紙は茶色い絹調の布で覆われている。
このアルバムは、僕の母が大切にしていたものらしい。中には、母と思われる十数枚の女性の写真が納められていた。幼い頃から大人まで、その年齢は様々だ。
僕はこのアルバムでしか、母の姿を見たことがない。
ちなみに父は、僕が生まれる前に心筋症で死んだため、顔すらもわからないという始末。母も僕を生んでから比較的すぐに亡くなったようだけど、誰も死因を教えてくれなかった。ずっと以前に一度、高嶋さんという警察官から、「事件に巻き込まれた」……という曖昧な情報を聞いただけだ。その彼も、あまり詳しくは語ってくれなかった。
後日、母についてそれとなく調べていた僕は、誰かに殺されたらしいという事実を突き止めた。でも、周囲の大人たちはなぜか、この話になると揃って顔を曇らせた。だから僕も空気を読んで、なるべく触れないようにしてきたというわけ。
両親を失った時点で僕に身寄りはなく、完全な孤児になってしまった。殺されたらしい母親の両親はずいぶん昔に離婚していて、祖父の所在は不明で祖母もすでに亡くなっていた。
結局僕は、2歳になる頃には児童養護施設に預けられ、中学3年までの13年間、そこで生活していた。
施設での暮らしは、あまり快適なものではなかった。尤も、物心ついた頃から施設にいた僕は、普通の子供達がどんな暮らしをしているのかなんて知る由もなかったのだけど。小学校に入り、友達の親と交流する機会が増えるようになって初めて、僕は気づいた。
……施設で働いている職員の人たちは皆、僕に対して冷たい。笑顔も言葉も、暖かみがなかった。彼らにとって僕は他人で、愛すべき本当の子供がいるということを意識し始めたのは、それからだ。
寂しいと思うこともあった。羨ましいと思うこともあった。だけどそれ以上に辛かったのは、自分を愛してくれていると、自信をもって言える人物が存在しないことだった。周りの人間は所詮、全員他人。誰も、自分の存在を認めてくれていないような気がした。
だから僕は、定期的にこのアルバムを開き、そこに映る女性の姿を見つめるんだ。……この人が生きていたら、僕を愛してくれたのだろうか。……そう、思いを馳せながら。
中学を卒業して、高校への進学が決まった時に、僕は施設を出た。今は生活保護を受けながら、しがないアパートでちんまりと一人暮らしをしている。そんなアパートの部屋で独り、母のアルバムを眺める僕。……なんて寂しい人生なんだろう。
そんなことを思いながらアルバムを捲ると、今の僕と同じくらいの歳と思われる、十代くらいの母の写真が目にとまった。
……母は、整った顔立ちをしていた。鼻筋は通っているし、目はくりっと大きくて、どこかハーフのような雰囲気がある。……母だと知らなければ、恋に落ちてしまいそうな顔だった。
「……そろそろ時間か」
ふと時計を確認すると、17時10分前を指している。僕はパタンとアルバムを閉じ、静かに立ち上がった。
今日から、近くの小さな鯛焼き屋でバイトをすることになっていた。たまたまポストに求人が入っていたので試しに連絡してみたら、電話だけですぐさま採用となってしまったんだ。
……めちゃめちゃブラックだったらどうしよう……という不安はあったけど、コンビニのバイトを断られた直後で落ち込んでいた僕は、あまり深く考えずに「働く」という返事をしてしまった。
まぁ、やばかったら逃げ出そう。そういえば昔、そんな鯛焼きの曲があったような……。違う、あの曲の場合、逃げ出したのは焼いてる人じゃなくて鯛焼きそのものだ。……ん? でもおかしくないか? 鯛焼きが焼かれるのは、鯛焼きの人生の中では一度きりのハズ。
あの鯛焼きは、どうして毎日焼かれていたんだろう。……毎日同じ鯛焼きを焼き続けるって、どういうことだ……?
……まぁ、どうでもいいかそんなこと。曲の矛盾点を突っ込んだところで、誰も得しないしね。さて、じゃあ出発するか。平和な店であることを祈ろう。
鯛焼き屋までは、僕のアパートから歩いて15分くらい。駅前の通りに、それはある。以前、一度だけ鯛焼きを買ったことがあって、その時対応してくれたのは優しそうな表情をしたおばちゃんだった。
今日もあの人がいるといいな……そんなことを思いながらも、僕は小さな店の裏手に回り、戸を叩いた。
「すみません、失礼しまーす……」
ここの入り口は、厨房と繋がっていたらしい。僕に背を向けて何やら忙しく準備している女性がいたので、遠慮気味に声をかけてみる。
「今日からここで働かせてもらうことになっている、山崎なんですけど……」
「えっ、あ、山崎くん? ちょっと遅くない!? 初日なんだから、早めに来なくちゃダメでしょ!!」
バッと振り向きざまにそう答えたその女性は、思った以上に若い人だった。……というか、たぶん彼女も高校生だ。そして、初っぱなから激しく怒られた。
……だけど。僕は、もっと別のところで腰を抜かしそうになる。
「店長ー、山崎くんが来ましたぁー。あたし今、下準備が忙しいんで、対応してもらっていいですかぁー?」
いそいそと手を動かしながらどこへともなく叫ぶ彼女は、すぐ目の前で呆然と立ち尽くす僕の様子に、まだ気づいていないようだ。
……僕は思わずカレンダーを探し、日付を確認してしまった。今日は二○十八年、九月六日。……良かった、年と日付に違和感はない。僕がタイムスリップしたということはなさそうだ。
……だけど、じゃあどうして?
どうして目の前に、僕と同い年くらいの「母さん」がいるんだ!?
「ちょっと、なにボーッと突っ立ってるの!? 早く中入って準備してよっ、忙しいんだから!!」
「え、あ……うん……。……あの」
「何!? あたしの顔に何かついてる!? それとも何か文句でも!?」
「いや別に……。ごめん……なさい」
あまり機嫌がよろしくなさそうな彼女に圧倒され、僕は部屋の奥へ進んだ。奥へ進みながら、さりげなく振り返ってもう一度彼女を見てみる。険しい表情でボウルに入った小麦粉をこねている、彼女のその横顔は……
……やっぱり、母さんだ。いや、母さんかどうかは分からないけど、少なくとも母さんと全く同じ顔をしている。僕はあのアルバムを何度も眺めて母さんの顔を目に焼き付けているから、間違いない。
どういうことだこれ。一体何が起きてるんだ? 開始早々わけが分からないぞ。
「ごめんね、彼女……忙しくなると気が立っちゃって。あ、私が店長の小井土です、よろしく。急に人が減っちゃったもんだから、電話だけで採用にしちゃったんだけど。真面目そうな子で良かった」
更衣室、と書かれた部屋の扉を開こうとしたところで、中年のおばちゃんがパタパタとやってきた。以前鯛焼きを買ったときに対応してくれた人だと、すぐに気付く。僕も、優しそうな店長で良かった……と思った。
「ここで制服に着替えて欲しいんだけど、小さい店だから男女で別の部屋を準備できなくてね。悪いんだけど、かわりばんこで着替えてもらえるかな?」
「あ……はい。えっと、従業員って僕と彼女と……」
「君のシフトとの時は、私とサクラさんとあなたの3人だけ。レジは私が担当するから、山崎君はサクラさんと鯛焼き作って欲しいんだ」
「そうなんですか!? サクラさん……って、さっきいた気の強い女性ですよね?」
「そうそう。あ、ちなみにサクラは名字ね、ややこしいけど。フルネームは佐倉春花ちゃん。あ、後は本人から自己紹介してもらって! じゃ、着替えが終わったら色々説明するから、声かけてね」
そういうと、小井土さんも忙しそうにどこかへ行ってしまった。どうやら、お客が来たらしい。それにしても、3人で回すって……大丈夫なのかな。だから彼女、あんなに気が立ってたのか。
……いやいや、そんなことより。
佐倉春花っていったっけ、あの子。一体……何者なんだろう。まさか、彼女の方がタイムトラベラー? ……だとしたらやっぱり、彼女は母さんってことになるのだろうか。
悶々と考えながら制服に着替えて厨房へ戻ると、一心不乱に鯛焼きを焼く彼女の姿があった。
「あ、店長から話聞いた?」
「いや、あんまり……。すぐにレジに戻っちゃって」
「うっそぉ! んもぉ、教えてる暇ないから、山崎くんはそこにある調合表見てどんどん生地作っちゃって!!」
相変わらず扱いが酷いな……。そう思いながらも、ボウルに小麦粉を放り込む僕。
この出会いが僕の人生を百八十度変えてしまうことになるなんて、このときはまだ……考えもしていなかった。
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