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佐倉春花②
チラリと、病室の方へ視線を送る。そこには、未だに「検査中」の札が立てられていた。……今日の検査はずいぶんと長い。もう少しだけ、昔の思い出に浸るとするか……。今度は、姉さんの話。
前にも言ったけど、あたしの姉さんは……死ぬほど頭がいい。
あたしが高校三年生になってもイマイチ理解できなかった微積分を、わずか7歳でマスターしていたなんてのは序の口。中学生の頃には奇天烈○百科の彼のように、色々なものを自作していた。
なのに姉さんは、ごく普通の生徒として平凡な中学に通っていた。テレビに取り上げられることも、大学から声がかかることもなく……。あたしは、それが不思議でしょうがなかった。
だけど、とある事件を知ったことで、姉さんに隠された秘密がだんだんと明かされてゆくことになる。
――同級生硫酸殺人事件。犯人の姉が、あたしの姉さん……佐倉奏多と全く同じ顔をしていたという、不可解な事実。あたしが立たされていた境遇と妙に共通点の多い犯人、相澤悠奈……。
あたしのいじめがきっかけとなってそのことを調べ始めた姉さんは、しばらく何も語ってくれなかった。いつしかあたしは小学校を卒業し、姉と同じ中学に通い始めていた。
「大変だっただろう、色々なことをいっぺんに言われて」
姉さんのそんな台詞から始まったあの会話をしたのは、部活動の仮入部初日だった記憶がある。ちなみに、あたしも姉さんも吹奏楽部。部活が終わった後は、いつも姉さんと一緒に帰っていた。
「もぉちんぷんかんぷんだよぉ……。先輩ってば、ほんっとすっごい勢いでいろんなこと喋ってくるの!! 頭パンクしそうだった……というか、パンクした!! ね、お姉ちゃん。家に帰ったら、部活のこと……色々教えてくれない?」
あたしはいつも通り、ごく普通の流れで姉さんにそうお願いしたつもりだった。だけど……
「……そのことなんだけどな、春花……」
……あの日の姉さんは、なんだか少し……いつもと違った。
「そろそろ姉離れ……したほうがいいのかと、最近思って……」
それは、あたしにとって信じられない一言だった。
どちらかというと、いつもベタベタしてくるのは姉さんの方だ。姉さんは無愛想な顔をしてることが多くてなかなか笑わないから、美人なのに男子からは全然モテなかったけど、あたしにだけは不器用な笑顔を作って、ぎこちないスキンシップをしてくれた。
普段とのギャップが可愛くて、あたしも姉さんが大好きだった。そんな彼女が急に「姉離れ」なんて、どう考えてもおかしい。
「その……なんだ、春花も中学生になって成長したわけだし、独り立ちした方がいいだろう。それに、吹奏楽部というのは上下関係で亀裂が入りやすい部活なんだ。だから、先輩を無視して私に頼る……っていうのは、あまり感心できない。先輩も、春花に頼られたいと思っているハズだからな」
あたしは少しの間、黙り込んだ。いつもはほとんど感情を表に出すことのない姉の声が……
「……お姉ちゃん……、なにか……あったの?」
……その日は、少しだけ震えていたからだ。
「いつもと様子が違うよ。堂々としてない……っていうか、あたしがウソ吐くときと同じような感じで、心の中が漏れ出してるっていうか……。お姉ちゃんらしくないよ、そんな下手くそなウソ。何かよっぽど……良くないことがあったの?」
だてに姉と一緒に生きてきたわけじゃない。姉さんの心の動きなんて、あたしにはすぐ分かる。部活なんかとは関係なく、姉さんはあたしから離れようとしていたんだ。
「何かあるんでしょ? だから、あたしから離れようとしてる。なにがあったの……?」
姉さんは黙っていた。……分かりやすい反応だ。
「同級生硫酸殺人事件と……関係有るんだよね……? 犯人に……会ってきたってこと……?」
もう、これくらいしか思い当たる節はなかった。犯人に会って、犯人の話を聞いて、……なにか判明したということだ。あたしとの仲が気まずくなるような、何かが。
「なにか……わかったんだったら、ナイショにしないで……教えて……よ……。そうやって隠し……」
「相澤悠奈は死んでいた」
姉さんは、あたしの言葉を遮ってそう答えた。
「……殺されたんだそうだ。皮肉にも……彼女が殺した生徒の妹に。だから、犯人には会えなかった」
あたしは、口を開いたまま言葉を失った。
同級生硫酸殺人事件の犯人は、すでに死亡していたというのだ。しかも、被害者の妹に仇討ちされて。ショックというか恐怖というか、この時代の出来事とは思えなくて戦慄した。
「……だけど、何か分かったんだよね……? 何か情報を手に入れたんでしょ……? だったら、あたしにも教えてよ!! お姉ちゃん一人で抱え込まないで……!!」
「分かったといえば、分かったのだが……」
あたしの問いかけに対し、気まずそうに俯く姉。
「……まだ、春花には話せない。話す覚悟も出来てない。ただ……、もしかしたら……本当に、もしかしたらなんだが……」
そう言うと、姉さんは何歩かあたしよりも先に進んだ所に立ち止まって、背を向けたまま呟いた。
「私は……。そう遠くないうちに、いなくなるかもしれない」
頭の中が、真っ白になった。姉さんのその声色は、なんだか異様に……現実味を帯びていた。
「あ……あはは、何言ってるの? あ、まさか留学でもするつもり? そうだよね、こんなに頭がいいお姉ちゃんが、こんな中学に通ってるなんて……ヘンだもんね」
あたしはあえて、おどけた声でそう言った。留学だったら別に、悲しいことじゃない。むしろ、凄いことだと思う。いなくなるにしたって、それが「悲しい理由」じゃないのなら、あたしにだってなんとか耐えられる。だから、深刻な雰囲気を壊したかった。
「そう……だ。そんなところだ。だから、春花には私を卒業してもらおうと思ったんだ」
姉さんはゆっくり振り向きながら言った。その顔は笑っていたけど……笑っていなかった。
「私が外国に行ってしまったら、春花は一人で……頑張らなきゃならないからな」
その次の瞬間には……。あたしは姉さんに、抱き付いていた。ぎゅぅって、抱きしめていた。
「ヤダ。やっぱり……どんな理由にしたって、お姉ちゃんがいなくなるのはヤダよ!! ずっといてよ、そばにいてっ!! お姉ちゃんがいなくなっちゃうなんて、そんなこと……考えられない!! お姉ちゃんだって、あたしのこと……心配でしょ!?」
自分でも、どうしてしまったのか分からなかった。「悲しい理由」じゃないのなら、姉さんがいなくなること……受け入れられると思っていたのに。受け入れようとしても、あたしの心に拒絶されてしまった。姉さんを困らせ、戸惑わせるだけなのは分かっていたのに……。次々に溢れ出す言葉の数々を、飲み込むことはできなかった。
「……ごめんね、お姉ちゃん……」
あたしは冷静になって、姉さんから離れた。姉さんは、あたしが離れた後もずっと……その場で呆然としていた。だからあたしも歩き出せなくて、二人して立ち尽くしてしまった。
ずいぶん闇が濃くなってきて、近くの電灯がパッと点灯する。あれからどれくらい時間が経過したのか、さっぱりわからなかった。ようやく、姉さんが静かに顔をあげて、そっと呟いた。
「……帰ろう。母さんが……心配する」
あたしは無言で頷いて、歩き始めた姉さんの後についていった。家に着くまで、二人とも何も話さなかった。
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