洗濯機の夢

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洗濯機の夢

 堀田悠(ほったゆう)は土曜日の午前十二時ちょうどに、コインランドリーに行くことにしている。  こちらに引っ越してきてからだから、もうすぐ三年が経つ。下着の類は手洗いで、大きいものは土曜日のこの時間にコインランドリーで洗う。夏場はTシャツすら手洗いで済ますこともある。この前、家に来た友人は呆れていた。洗濯機を買えばいいのにと何度言われたかわからない。その度に適当に笑って誤魔化すのももう慣れてきた。ミニマリストなのだと主張するには、部屋には物が溢れすぎている。  実際不便だし、電機屋に行ったこともある。だが、どうしても買えない。  自動ドアが開くと、途端に暖かい湿った空気が身を包む。袋を持った常連のおばさんとすれ違い、微笑んで互いに会釈する。もうずっと通っているから、いつの間にか顔見知りもできていた。名前も知らない、悠の人生における通りすがりの猫と変わらないような存在だけど、そんな希薄な人間関係に安堵する。  ゴウン、ゴウン、と音を立てて回る洗濯機をなるべく見ないようにしながら、一週間分の洗濯物を洗濯機に放り込む。スイッチを押してすぐにコインランドリーを出た。これもいつも通り。この量なら乾燥を含めて一時間あれば終わるから、それまでこの近くで用事を済ます。グルグル回っているのは見たくない。想像するだけで息苦しくなる。熱く、息の詰まるような空気。  この近くにはショッピングモールもゲーセンもないけれど、小さくて静かな喫茶店が多い。今日はパソコンを持ってきたから、この時間で課題を片付けてしまう予定だった。理系の大学生は忙しい。昨日の実験レポートがまだ書き終わっていない。  だが、コインランドリー前の横断歩道を渡ろうとした時、肩を叩かれた。 「はよ、堀田。何してんの?」  社交的な明るい声が耳に響く。顔をしかめながら振り向くと、田村は綺麗な顔をくしゃくしゃにして笑った。同じ大学の、よく授業が一緒になる男だった。いつも見るたび羨ましく思う。悠はこんな風に笑えない。 「もう昼だけどな。洗濯行ってきた」 「ああ、いつものか。よく行けるなあ、俺なら昼過ぎに起きて、面倒になって行かないパターンだわ」 「俺は不潔なお前とは違うんです」  適当にあしらいながら、内心ほっとする。田村はあまり人の事情を詮索するようなタイプではない。下手な奴にバレると面倒なことになる。何かあるのかと心配されるのも、揶揄うネタにされるのも面倒だった。 「俺これから昼飯食いに行くんだけどさ、一緒にどお?」 「あー……いいよ」  なんでかあっさり同意してしまった自分に驚いた。意外と寂しかったのかもしれない。最近は、誰とも話さないようにしていたから。 「よっしゃ、決まりな。ラーメンでいいか? うまいとこあんだけど」  頷くと、田村はまたニッと笑った。その時ちょうど信号が青になり、二人は揃って歩き出した。 「なあ、結局さ、何が悪かったと思う?」  田村は、味噌ラーメンを啜りながら言う。オプションでバターコーンを頼んでいて、なんだかとてもいいなあと思う。悠はタートルネックの袖をまくりながら首を傾げた。 「さあなあ」 「さっきからそればっかじゃねえか、もっとちゃんと考えてくれよ」  肩を竦め、器に残ったスープを口に運ぶ。田村がフラれた理由なんて、思いつくはずがない。眉を潜めても、不満げな子どものようにしか見えない、愛嬌のある男だ。大学でもモテると噂になるような。田村がダメなら、悠はもっとダメだ。性格的にも、経験値的にも。 「会ったことないやつのこと言われてもなあ、なんとも言えねえよ」 「そういうのが想像力の欠如って言うんだよ。考えてみろ、もしもの話だ」  想像力の欠如。ふっと記憶がよぎる。高い女性のヒステリックな声。なんでこんなことがわからないの? 「おい、堀田、堀田ってば。大丈夫か?」  呼ばれていることに気付いて顔をあげると、田村は心配そうに顔を覗き込んでいた。 「……ああ、悪い。ちょっとボーッとしてて」 「なあ、何かあったのか? 最近変だって」  悠は思わず田村を見つめた。話してしまえたらどんなにいいだろう。口を開きかけたものの、何を話したいのか、どう反応してほしいのか、わからない。結局口を閉じて笑った。 「ありがとう。けど大丈夫だ」  時計を盗み見ると、すでに四十五分が経過していた。ゆっくり歩いて戻ればちょうどいいだろう。悠はショルダーバックを手に取った。 「俺そろそろ行くわ。洗濯終わっているだろうし」  何か言いたそうな表情で頷く田村を置いて、店を出る。寒さに身を縮めたが、賑やかだった店内から逃れてほっとした。田村には悪いが、人が多いところは苦手だ。  歩きながら、悠は自然と細い左腕をさすっていた。今は服の下に隠れているが、赤い大きな火傷の跡がある。背中にも、足にも。もう痛くないのに、さする癖は抜けない。  コインランドリーの前で時計を見ると、一時間が経過していた。ほっとして店内に入る。自分の回した洗濯機を見に行くと、まだ音を立てて回転を続けていた。鈍い、機械音に顔をしかめる。あの音は実際にはとても大きい。身体がすりつぶされてしまうような気分になる。  その時、機械音に紛れてどんどん、と暴れるような音が聞こえた。隣の洗濯機からだ。何かの鳴き声が聞こえた気がする。  猫だ。  一瞬にして胸が冷たくなった。心臓が大きく音を立てる。慌てて洗濯機に駆け寄り、止めようとする。だが、停止ボタンを押しても反応しない。何度も押しても、長押ししても止まらない。  しばらくすると何かがぶつかって暴れるような音は止み、悠はますます焦った。死んでしまったのかもしれない。あの熱い、うまく吸えない空気の中で。  揺れる洗濯槽。熱い空気。歪んで見えた外と、覗き込んだ母親の目。グルグル回って朦朧として、自分が形を保てているのかわからなくなる。蓋が開いた時、外の涼しさに驚いた。  お昼の時間だけは、悠が洗濯機に入れられることはなかった。悠が一番好きな時間だった。だから、十二時にここに来るようにしていた。コインランドリーにしたのも、洗濯機をなるべく見たくなかったからだ。  そこまでしてやっと、洗濯機の前にいても大丈夫だと思えたのに。誰かが入れたのか。わからない。  悠はその場に蹲み込んだ。息が荒くなる。足が震える。地面がぐらぐらした。  ひと月くらい前に、住所が母親にバレた。手紙が送られてきた。小学三年の時に施設に引き取られてから、もうずっと会ってなかったのに。良くなってきた発作がぶり返したのはそれからだ。  顔も覚えていないけれど、洗濯機の中にいる悠を覗き込んだ目は良く覚えている。楽しげな、優しそうな目。必死に伸ばす手の先で蓋を閉められた。 「あら、こんにちは」  後ろから声をかけられて、悠は飛び上がりそうになった。後ろに、さっきすれ違った常連のおばさんが立っていた。優しそうな顔の、シワのよったおばさん。自動ドアの開く音が全く聞こえていなかった。悠は真っ青な顔で後ずさり、自分の洗濯機の前に戻った。 「どうしたの、そんな顔して。私、今日ここ二回目なのよ。一度じゃ全部持って来れなくてねえ。二回目のをさっき入れたばかりなの」  おばさんは悠に微笑みかけると、隣の洗濯機の前に行った。手足の震えが止まらなかった。おばさんは平然と残り時間を確認し、中央のベンチに腰掛けた。 「あ、あの」  思わず悠は声をかけていた。 「何か?」 「その中に、生き物って、入ってませんでしたか?」  声が震えた。そんなの、入っていたとしても正直に言うはずないのに。案の定、おばさんは怪訝そうな顔をした。 「生き物……?」 「暴れたような、音がして」  おばさんはああ、と納得したような顔をして、すぐ可笑しそうに顔を緩めた。 「ゴルフボールじゃないかしら。 ポケットに入れたままなの、さっき思い出したのよ」  悠は息をついて蹲み込んだ。ああ良かった、違った。そうだ、生き物を入れるなんて、普通じゃ考えるわけがないのだ。 「失礼しました」  お辞儀をすると、おばさんは微笑んで首を振った。その時、やっと悠の洗濯機が止まった。ピーピーと呑気な機械音が終了を知らせる。力なくエコバックに衣服を詰め込む。脇が汗でじっとり湿っているのがわかる。ひどく疲れていた。  それでは、と会釈してコインランドリーから出る。ほおを刺すような、冷たい空気が心地よかった。大きく空気を吸い込み、息をつく。  大丈夫だ。悠はもう生き延びたんだから。  堀田愛子は、一人コインランドリーに残った。何に向けるでもない微笑みを浮かべていた。悠は忘れていなかった。これで微笑まずにいられるだろうか。リスクを犯してでもやってみただけのことはあった。  しばらくして洗濯機が止まった。愛子は中身を乱暴につかみ、透けない黒いビニール袋に突っ込んだ。袋の口を硬く縛り、そのまま裏手のゴミ捨て場に持っていく。黒い袋が日に照らされて、わずかに毛皮が透けて見えた。 fin.
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