1章

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 その日、えも言われぬ悪寒が一晩中続いた。  翌日も授業は無情にも行われる。寝不足の顔に化粧は乗らず、どんよりとしたオーラさえ身にまとい、学校へ赴く。  友人がいないことで、「今日、肌の調子が悪いね」など揶揄されたり、心配されたりすることがない。実はそれが楽だと感じているため、積極的に友人を作ろうとしない。  今朝の寝不足で行動が緩慢になり、2限の授業は多少の遅刻で教室へ入る。  そこでちょうど教員が「カウンセラーは傾聴しながら、相手の主訴の中核を捉えなくてはならない」と話す。思い出すのは、「円環的認識論」の話で、そうなると自然に連想されるのが昨日の男性だ。  まさか教員側の立場で、図書館で初めて会うことになるおは思いもしなかった。だが、心理学に関する教員の紹介は、入学してすぐにある立食会にて済ませてあるはずだ。  授業は淡々と進んでいくが、未来は空に何かを見つけたように一点を見つめる。  あの男性は見たことがない。昨日が初見だ。心理事務室には教員なら誰でも入ることができるだろうが、基本的に心理学科の科目を受け持つ教員しか駐在していない。  そうなると、ますます、彼の正体が見えてこない。  授業を終えても正体不明の男性が気になって仕方ない。こういう時、常に隣りにいる友人の1人や2人いた方が都合がいいこともある。    次の授業まで1コマ空いた。その時間を利用して、また図書館へ移動する。授業中の図書館はおそらく、大学構内で一番静かで集中しやすい場所だと自負している。  そこで暇な時間を勉強や課題で潰すが、昨日の事案があってから、自習室へ入ることは忍ばれた。ここは大人しく、備え付けのテーブルセットに腰を下ろして、その他の大学生同様に溶け込んでいく。    今日の勉強は鞄に入れっぱなしにしていた「家族心理学」の本。それを読みながらノートにまとめる。    未来は勉強をすること自体に嫌悪はない。ただし、成績に直結できるなら尚の事良かったかもしれないが、自己満足で勉強するスタンスで、成績が悪くなることはないものの良くなることもあまりない学力であった。  1度ノートを開き、ペンを走らせるとそこから集中の渦に自ら入り込み、簡単に1時間は過ぎていく。 「すごい集中力だな」  そう声をかけられるまで、後から人が真隣に座っていたことなど感じ取れなかった。  喉まで出かかった驚嘆の声を噛み殺し、息をひとつ溢す。  昨日は所在不明の男性だった正体不明の男性。 「昨日ぶりだな。今日も1人で勉強?」 「え、は、はい」 「この時間は此処でも席空いてるもんな」 「そうですね・・・・・・」 「それ、昨日僕が読んでたヤツじゃん」 「あ。えっと、持ってました」  昨日と打って変わって砕けた話し方をする男性は、今日も黒縁をメガネをかけた爽やかな若さが感じられる。それに少しの疑問符を抱きつつ、相手は教員側の人間であることを念頭に置いて畏まった口調を崩さない。  咄嗟に嘘をついたことに関しては、未来なりのガードである。  物理的な距離を不覚にも許してしまったが、心の距離だけは一定の距離を保とうと、親密になりそうな話の流れを事前に食い止める。
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