先生

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先生

 私は常にその人のことを先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、そのほうが私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」と言いたくなる。筆を執っても心持は同じことである。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。  なんて堅苦しい文章で私の手記を始めさせてもらう。この堅苦しい文章は私の文章ではない。私の元いた世界における文豪の作品から引用したものだ。転生前の私はその作品の不思議な魅力に取りつかれ、何度も何度も読み返し、ついには一度本を丸ごと暗記しようと試みたことがあった。その挑戦は見事失敗に終わり、今となってはせっかく途中まで暗記した文章のほとんどを忘れてしまったが、最初のひと段落なら何とか思い出せるといった具合だ。  これから語るのはとある勇者の話。  とある勇者と私の物語だ。  勇者の話をするのになぜ元の世界の文豪、つまりはこの世界における知名度ゼロの輩の文章をわざわざ引用したのかというと、その勇者とその作品に登場する「先生」と呼ばれる人物が非常に似ていると思ったからだ。  似ているというのは私のあくまで主観的な見方であり、客観的には全然似てなかったりもする。仮に、この世界の人にその作品を読ませたとして、その人に「この作品出てくる先生と、勇者は似ていますか」と質問してみたとして、似ていると答える人はおそらく皆無だろう。  だからこれは、あくまで、私にとっての勇者が作品の「先生」に似ているという話になる。  私はその勇者のことを実際に「先生」と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。
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