一節「蒼い夢」

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一節「蒼い夢」

皮膚が粟立つ不快な感覚に襲われて、反射的に僕の背後に誰か居るのかと身構えてしまった。  西日の差し込む自室で机に向かっていると、流石に夏の暑さには参ってしまう。扇風機で紛らわすのもそろそろ限界かと諦めて、ノートと辞書、筆記用具をまとめて立ち上がる。  昼間の仮眠で不穏な夢を見てしまってから、どうにも落ち着かず、所在なく身体を揺らして居ても意味が無いと判断してから、夏休みの課題の残りを片付けようとしていたけれど。  階段を下りてリビングに入れば、昼間から電源の入りっぱなしなエアコンの冷風が僕の汗を一気に引かせていった。  のぼせた意識を戻していると、ローテーブルの前に置かれているソファから人の気配がしている。  背面からでは姿は見えないけれど、誰が何をしているのかは大体判っていた。エアコンの排気音に紛れて、小さく呼吸音が聞こえている。下りてきた僕には反応を示していないところを見るに、眠っているようだった。  丁度よく静かな環境で、落ち着いて作業できると息を吐いて座れば、冷えた椅子の座面が心地良い。  テーブルにコピー用紙を広げて眺めていると、どうにもやるべきことでないような気がする。しかしそんなことは考えるまでもない異常な思考だと解っていたから、首を振って靄のようなものを払い、ペンを取って筆記を始める。  ほとんど無音の中でしばらくしていると、脇に置いた携帯端末がメッセージを受信していた。  見てみると、友人から「遊ぼうや」と来ている。受験生が一体何を考えているのか、全く解らない。面倒だとは思わないけれど、だからといって即答で乗ってやるわけにもいかず。  どう返信しようか迷っている間に背中に誰かが触れているのに気付いていた。しかし反応するのも面倒くさいので無視していると、腕を首に回して抱きついてきた。 「兄ちゃん、暖かいね」 「なんだ、あんなところで寝てたらそりゃあ、冷えるだろ」  妹の体温が僕の熱を奪って戻っていく。そのまましていると暑いだけなので振り払うけれど。 「あたしの部屋にもエアコン欲しいなあって思うんだ」 「解るけどさ」  それやると、お前引き籠もるだろ。そう言いたくなって止めた。そんなことは僕も同じようなものだからだ。 「母さんに言ってくれよ。僕が決めることじゃない」 「言ったけど、駄目だって即答された」 「だろうよ」  両親の収入は決して少なくはないけれど、基本的に無駄遣いをしない質が染みついているらしく、必要の無いことを要求してもすげなく撥ねつけられることが多かった。 「兄ちゃん、汗臭い」 「文句あんのかよ」 「無いけどね。何で夏って暑いのかな」  理由を尋ねている口調ではなかったので、暑いから夏なんだろとだけ返した。集中しようと下りてきたのに、妹に邪魔されるとは本末転倒な気がしてしまうけれど、それは仕方の無いことかと諦めた。 「てーか、ずっと寝てたのか」 「やること無いんだもん。宿題は昨日終わらせたし」  案外マメだった。まあ、中一の夏休みの課題はそんなもんだろうと思い出してみれば単純だが。 「もう眠くないし、どうしよっかなって時に兄ちゃん来たから」 「僕を暇潰しの道具にしないで欲しいんだけど」 「えー」  解っていてそういう反応をするのだから、始末が悪い。  妹、白羽涼(しらは・りょう)はテーブルを挟んで向かい側に座る。楽しそうに笑うその表情に、どうにも後ろ暗いものを感じて視線を合わせられない。そんな僕を見て不思議そうな色がその黒い眼に浮かぶけれど、敢えてそれを無視していた。  明るい茶髪を肩に届くくらいで切りそろえている。所謂ボブカットという髪型だけれど、ここ数年間、極端に伸ばしたり切ったりしていない辺り、気に入っているのだろう。  ただ、上半身に来ている黄色のセーターはいただけない。暑いのならそれを脱いだらどうなのか、そう言いたかった。  指摘したところで「えーやだー」としか返ってこないのは知っているけれど。 「お腹空いた。兄ちゃん、なんか作ってー」 「目の前の状況を認識した上でそれを言っているんなら、良い性格してるよお前」課題やってんだろうが邪魔すんな。 「うーん」  困ったように唸られても、僕には動く気はなかった。午後三時になって昼食の準備など遅すぎるし、僕としては夕食の準備をするには二時間は早い。 「母さんに言ってくれば?」 「怒られるよ。今日も朝から書斎に籠もってるし」  知ってるけど。僕も朝食の後に「邪魔をしないように」と直接言われていたから。何をしているのかは知らないけれど、何かしらの締め切りが近いことはよくあることだった。 「しょうがないな、コンビニにでも行くか? 夕食まで繋ぐならそれでいいだろ」  そう提案すれば、涼は嬉しそうに笑う。 「いひひ。兄ちゃんのそういうところ好きだよ」 「はいはい。準備してきな」  準備なんか、僕にしてみれば顔を洗って財布でも持てば終わりなのだけれど、涼に関しては割と時間をかけてくる。女子ってそういうものなのかな、と思ってみても、比較対象がないのでよく判らなかった。  冷水で緩んだ神経を引き締めると、Tシャツが濡れてしまった。すぐ乾くだろうと無視して、自室に戻る。  下に履いているよれたスウェットをジーンズに変えて、上着にグレーのカッターを羽織る。半袖のTシャツのまま外に出るのがなんとなく気が引けるけれど、単に自意識過剰だと割り切れないのが、いかにも小物だった。 「ま、いいか。自己満足だものな」  財布をポケットに入れてリビングに戻ると、置きっぱなしになっていた携帯端末にまたメッセージが飛んできていた。確認するのは後回しにして電源を落とす。こんな中途半端な時間に呼び出しなんか受けたくもない。 「くぁ」  欠伸をこぼす。昼間はあまり寝ないのだけれど、眠気を抑えるのはカフェインでも取らなければできないだろう。  広げていた書類をまとめていると、ぱたぱたと足音がした。涼が下りてきたのが足音の軽さで判る。両親はもっと落ち着いた足音を鳴らすからだ。 「兄ちゃん、おまたせ」 「そんなに待ってないけどね」  さっきから見た目はそんなに変わっていないけれど、何故か両足に黒いニーソックスを履いている。学校の制服にあったものだけれど、私服でそのチョイスはどうなのだろうと困惑していると、「うん?」と不可解そうに見上げられた。
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