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「けほっ。ここまでくると、喉に来るな」
霧がどんどんと濃くなっている。街の中心部に近づくほどに全身の肌に強い痛みが走るのだから、やはり大人数で移動するのは避けるべきだっただろう。
「そろそろ学校のある辺りだけど、ちょっと休んでいった方が良い気がするよ」
「同感だな。俺としてもこういう物質に対する手段は回復を待つしかない」
ナビゲーターをしている糸識さんと礼吐くんが同時に言うのなら、それを覆す力は僕には無かった。従うというか同意するしかない。
無理をする理由もないし、これ以上猛進するのは危険性を高めかねない。
位置情報を把握できる糸識さんに外れられるのも、困ることなのだけれど。
彼女が名詞を付けずに「学校」というのなら、僕たちの通う陽山中学校のことだろう。ここまで真っ白な世界の中でその位置を正確に捉えられるのは驚異的だと思うけれど。
「位置の把握は訓練すれば誰でもできるよ。自分の歩幅のキャリブレーションと角度の感覚、マップ情報の取り込みなんて、人間の基本スペックだもの」
「嘘つけ。そんなことできた奴、お前しか知らないよ」
自分の世界が狭いのだろうか、と考えてしまうが、中学生ならそれも仕方ないことかもしれなかった。
「可能性の話だよ。人間はまだまだ未知の能力を隠し持っているからね」
「異能力以上の可能性があったら世界が消え去る気もするけれど」
「だからこそ世界は滅亡したのかもしれないよね、何度も何度も」
と、会話にニアータが割り込んできた。
「何度も、って?」
そう問い返す僕に、彼女は不思議でもなく頷いて。
「今の君たちは知らないだろうけれどね。『創世の大火』で世界全体の資料があらかた失われているから、一般の人は知りようがないし……」
日本政府も何故かその事実を隠したがっているようだからね。
そこで不思議そうに首を傾げた。確かに『プロローグ』の影響をほぼ受けなかった日本は、前世界の記録をある程度所有しているはずだ。
「オモイカネの最深部。そこまで行く必要はあるけれど。しかし奇を衒って萌芽院に向かうこともできそうだよね」
オモイカネ。国立中央図書館の通称だ。それこそ政府の機関ではあるが、最も浅い階層には誰でも入ることはできる。
全部で五階層あるその深層部には、入れる人間は限られている。しかしどの人間が権利を持っているのかは公表はされていないのだ。
は、いいんだけれど。
糸識さんがガラス戸に手をかけて右に引こうとして。
がちん。と、動きもしなかった。
「鍵がかかっているね……。どうしよう」
玄関扉の鍵は裏側から南京錠で固定しているので、ピッキングのしようもない。
困っていると、ニアータが扉の前に立っている。何をするのかは大体わかったけれど、仕方ないことと敢えて何も言わなかった。
「ほい」
ばぎん。と、あっさり開いてしまった。鍵を引きちぎってしまっていたのが驚異的だが、しかし既に予想通りといえなくもない。
この程度の技能は、異能者であれば大体の人間が可能だとは言うけれど、少なくとも異能者でない僕にはできるようなものではなかった。
「やっぱり真祖は格が違うな……」
「一長一短って感じだよ。さっきも言ったけど、わたしは呪術師とは致命的に相性が悪いんだから」
ニアータはどこか視線を遠くに投げていた。何か思い出すことがあるようだ。
そういえば、幻術の中で出会ったとき(正確には六千年前らしいけれど)、甦らせられたと言っていたが。それはその時点でニアータは生きていたわけではないということなのだろうか?
「ん? 仁くん、何か言いたそうだね」
「んー。今訊くことでもないけれどね」
そう? とニアータはさっさと校舎に入っていった。その後ろでルルが三水を磔にしながらついていく絵面がシュールすぎる。
三水はもう喚く気力もなく、かといってぐったりしているということもなく。
「くぅ……すぅ……」
眠っていた。なんて奴だと驚くけれど、それほどに状況慣れしているというのなら、別に驚くことでもないのだろう。
水道で顔を洗いながら、ピリピリと痺れる眼球を丁寧に洗浄しておく。傷は治っても、目の損傷は治しにくいものだ。今でこそ相当に医療技術も進歩して、視力や角膜の修復は可能だけれど、まだまだ先進医療の一部だ。
隣で同じようにしている藍樹が頭を振って髪の水気を飛ばす。こっちに水滴が飛んできて鬱陶しいのだけど。
タオルなどここには無いので、自分の服で拭おうかとも思ったが。それに意味はないと気づいてやめた。
呼吸で体内に入った分は大量に水を飲んで薄めるしかない。これから動くことになるかもしれないのに水をがぶ飲みするのは危険な気もするけれど。
そう思っていると、ポケットの携帯端末がアラームを鳴らした。
取り出してみると、画面には「残り三時間」とだけ書かれていた。どういう意味かと訝るけれど、しかし考えるまでもなくこの問題の時間制限だとすぐわかる。
校舎内で電波を拾えているようで、時刻が表示されていた。
「午後四時三十分。時間的には日没辺りがリミットってことなのかな」
だろうな、と藍樹が応じる。
「というか、それ以上に時間をかけられると外部に異常が漏れ出すってことだろ。時間を止める異能なんてものは限定的過ぎて実用的じゃねえし、鯖尾の話しぶりだと呪術とか魔術に関わる何かの可能性が高いしな」
そもそも、敵の目的が不明なんじゃあ、手の打ちようもねえよ。
藍樹の言い方は適当に聞こえても、それなりの分析をしている。僕や糸識さんのように場当たり的ではないらしい。
「解らないことばかりだよな。最初からさ」
『ガーデン』に僕たちを呼び寄せた理由。
ニアータをわざわざ外部から引き寄せた理由。
街を覆う霧。結界的な方法で括っているのは誰なのか。
何故涼が僕たちと別行動を取っているのか。
呪影が顕れた現象の原因。
鯖尾三水の持つ、目的の詳細。
そして。
「…………式」
唸るような声で漏らした名前に、僕は良いイメージを持っていない。というか、寧ろ嫌っているくらいだ。
藍樹は何も言わなかった。それほど声に嫌気が混じっているのを感じたのだろう。
「居ないのなら考える必要はないが。いつまであいつは僕らに付き纏うんだろうな」
「別にストーキングをしている訳じゃあないだろ。考えるだけ無駄な気もするがね」
そうだけどさ、と天井を仰いで呼吸を深くした。肺いっぱいに空気を取り込んで、酸素を送る。
「……ん。落ち着いた」
行こうかと藍樹に視線を送って、二階にある一年二組の教室に入る。僕も藍樹も糸識さんも涼も入ったことのない教室だった。
知らない景色、知らない匂い。
考え事をするなら、丁度いい環境だった。
「仁くん、なんか険しい顔してるよ?」
ニアータが一目で見抜いてきた。さっきの思考が抜けきっていないのだろうとは自分でもわかる。
「うんまあ、それより。何でニアータは教卓の前に立っているんだ?」
「ふふ、一度教師の気分ってのを感じてみたかったんだー。ここ、すごいね。教室の隅々まで見えるよ」
その感覚は解るけれどね、となんとなく息を吐いて、適当な席に座った。教室の真ん中あたりは、あまり経験はないけれど。
「ねえ、仁くん」
「何かな、ニアータ」
それだよ、と指をさしてきた。
「呼び方が余所余所しいっていうかさ。……ニアって呼んでほしいな。その方が楽でしょ」
「それもそうだよな……。分かったよ、これからはニアって呼べばいいんだね?」
「うん」
笑ってうれしそうにしているニアの表情が幼すぎる。何歳だ。
「にーくん、ニアさんみたいなロリィな女性がお好みかな?」
いつの間にか背後に座っていた糸識さんがそんなことを言っている。怒るべきなのかもしれないが、一概に否定できない事実が一定量含まれているのが、その感情を封じ込めてくる。
「そんなこと、一度でも言ったことあったか?」
「ていうか、最近はカナちゃんを気にしてるよね?」
「……………………………」
隣のクラス、三年三組に所属している断溝叶多(たちみぞ・かなた)という少女に気が向いていることを指摘されるが。それはなんとなく、喜漸と話していることが多いからというだけのことで、まだ一度も言葉を交わしたことはないのだけれど。
「ほーう? 仁くん、気になる子がいるんだ?」
「ニア、そんなに面白がることか?」
そこまで面白い話でもない気がするんだけれど。
「仁くんのような少年の色恋とか面白いでしょ」
「言い切られた……。別に恋とかじゃないんだけどな。別のことが気になっているだけでさ」
詳しいことを話す気はないけれど、どうにも断溝の家庭環境が良くないという噂を聞いているのだ。それを僕が理解できるかは判らないけれど、それでも心配できないほどに他人に無関心でいられはしないのが僕だった。
そんな考えを読んだのか、ニアはそれでも楽しそうに笑っている。
「仁くんは好い人だね」
「どうだろう。結構身勝手なんだけどな……式には普通に偽善者って言われてたし」
「いいじゃない、身勝手。お節介とか、余計な世話とか、そういうの? 無くなったらそれは哀しいことだよ」
人間は勝手に何かを思っているだけだよ、とニアは断定的に言った。
ニアは真祖だけど。
「知性のある生き物って、大体そんな感じでしょ。知り合いのネフィリムもそう言ってたし」
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