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「それを意識すれば、お前はお前じゃなくなるだろう?」
は、と瞼を開く。身体を包む熱がいつもと同じ夏の空気なのに安堵しかけ、いや違うだろうとすぐさま否定した。
茹だるような暑さ、蝉の声。
薄くのばした水色の空、刷毛で擦られたようなまばらな雲。
それを全て溶かしてしまうような、天頂で輝く白い太陽。
「ここは、どこだ?」
さっきまで僕は午後三時の街中に居たはずだ。いきなり時刻が戻ったように太陽が真上にあるはずがない。
周囲を見れば、そこには、
血のように朱い長髪を揺らして、遠い記憶の底に居た、魔女が立っていた。
「久しぶりね、仁君」
「…………どうして」
「さあ、私には解らないわ。でも、時機は来ているってことじゃないかしら」
時機? 何のだ、と問うこともせず。
胸の辺りで熱を感じ、そこにあるものをつまみ上げる。
細い鎖に付けられた、ルチルの結晶。それが白く輝いていた。
「ほら、ね」
緩やかに魔女の視線がその石を射抜いた。自分の持ち物だったのに、そんな感情のない視線を向けられると、やはり根本的に考え方が違うんだろうなと思わざるを得ない。
「……ノエル、あんたは」
「ここに居ない私を糾弾する意味は無いわよ? 解っているくせに」
つれない反応だったけれど、それは事実だった。僕自身の感覚が『この状況は本物ではない』と判断してしまっている以上、今目の前に居る魔女に問うことに意味は無い。
世界のどこかで今も活動している本物の『山猫(リンクス)』はこの世界には関与していない筈だ。
じいじいと鳴り響く蝉の声に思考を乱されながらも、基本的なことくらいは解っている。
「誰かに攻撃を受けているのかな」
「多分ね。仁君自身に『想念結界』を作る能力があれば、話は変わってくるけど、どう?」
「想念結界の使い手って、世界に二人しか居ないって聞いてるんだけど」
どちらも相応に有名な術師だから、それ以外に居るとなれば騒ぎになるだろう。
「まあ、根っからの武闘派の仁君が精神感応なんて出来るわけないけどね」
「もう少し言い方を考えろよ」
「ここに居る私は仁君の認識で成り立ってるから、この喋り方は仁君そのものをトレースしているだけなのよ?」
つまり僕の深層心理ってこんな感じなのか……。
嫌な奴だよ。
「とりあえず、進んでみるか。この世界が幻だろうが何だろうが、根っこを掘り返せば何かは変わるだろ」
「そうねえ。根っこなんてものがあるならね」
うぜえ……。
確かに混ぜ返すのはよくやるけど、僕ってこんなに不快な奴だったか?
まあいいかとかぶりを振って、目の前にある獣道を進んでいく。緑の匂いがひどく鮮明に鼻をついてくるので、基本的に自然と交わらない僕にはあまり心地いいものではなかった。
草地には一本だけ、土が剥き出しになっている。これを辿れというのか、それとも誘い込まれているだけなのか。
どうあれ、どこかには進んでいかなくてはならない以上、迷うだけ無駄だった。
「暑い……」
「気にするだけ無駄よね。別に脱水にもならないんだから」
「そうだろうけどな。気分の問題だから」
「この世界の管理者なら、それも簡単に解決できるのだろうね」
自分には干渉できないと言外に言い切られた。結局、僕一人で解決するしかないのか。
ここは、どこだろう。草原から大分歩いてきたと思っているけれど、平坦な地形は全く変わることなく、地平線ばかりが視界を占めていた。
確かにノエルの言うとおり、熱中症や脱水の心配は無いのだろうけれど。それでも身体を灼くような暑さは精神の均衡を簡単に見失わせる。必死になって暴走する思考の一部を抑え込んでいても、それが爆発するのは目に見えていた。
だから、僕は立ち止まった。
「やめた。このまま進んでても意味ないぞ、これ」
「……もう。案外意気地が無いのね」
「寧ろ意地になっても状況は変化しないだろ。だったら一度止まってみるのも一つの手だろうよ」
そう言って、草に覆われた地面に寝転んだ。眠気は全く無く、ここが精神世界であるなら、身体的な疲労は蓄積しないはずだ。
空を見上げたまま動かない僕の隣にノエルが座る。僕の記憶が元になっている彼女がどれほどの再現度をもってここに居るのかは解らない。あの時、ノエルは魔法使いと名乗りながら、魔法を一度たりとも使うことがなかった。
「よっと」
ノエルが右手を空に向けて、パチンと鳴らす。
すると上空に薄い霧の幕が拡がっていく。日光をその幕で柔らかく拡散させて、僕たちが居る場所にだけ陰を作った。
「魔術か」
「水蒸気を操るなんて基礎中の基礎だからね」
そういうものか、それとも僕がそう思っているだけなのか。どちらにしても確かめる術は無い。もう一度生身のノエルに会える保証はないのだから、本当に考えるだけ無駄なのかも知れなかった。
じっとしていれば、緩やかに風が吹いていた。草を揺らして匂いを振りまく自然を全身で感じていると、苛立っていた心が平坦になっていくのがよく判る。それだけではこの世界に何の意味があるのかが解らないけれど。
「…………?」
周囲の様子を探索しようと意識を研いでみても、何も感じられなかった。幻覚の中で通常と同じような感覚は期待できないのなら、もし戦闘にでもなったらどうしようかと少しだけ陰鬱だった。
さっきノエルが言ったように幻覚で作られた仮想空間は、管理者でなければ自由に操ることはできない。僕の意志でメインの武器になる日本刀をジェネレートすることは不可能なのだ。
「そういえば仁君の家にVRのゲームハードあるのよね」
「……まあね。母さんのコネクションで貰ったものらしいけど」
一応何回か使ってみたことがあるものの、アクションもののソフトで遊んだ後は酔ってしまうことがあって、あまり気分のいいものではなかった。脳の疲労感と動いていない身体の感覚がズレてしまうから、その不均衡に慣れてはいない。
「そういえば。こんな広い草原なんか、僕の記憶にはない筈なんだけれど」
それなのにどうして、ここまで落ち着いていられるのか。何というか不可解な気分が頭を打っている。
「そうねえ。でも、君の人間でない部分がこの風景を見せている可能性もあるけれど」
人間でない部分。ずっと昔のことを思い出そうとして、できなかった。
まあいいかと思考を打ち切って、なんとなく手を空に向けて伸ばしてみる。そこで刀の柄をイメージして意識を集中する。
「……影楼」
呟いてみても、イメージは形にならない。普段は持ち歩いていないのもあるのかも知れなかったけれど、そもいちいち真剣を持ち歩くような危険な真似をする奴も珍しいというか、普通に犯罪だった。
「かげろう? 何それ」
「刀の名前。やっぱり物質だと駄目だね」
「ああ、仁君は剣術を習っているものね。真剣を使うとは思わなかったけれど、行村君がそういう遣い手だっけ」
「先生は剣術専門って訳じゃないけどね。涼は薙刀を習っているし、他にも槍術だったり暗器術だったり捕縛術だったり、一人の人間に収まる知識量だとは思えない」
「でも、事実存在している。それだけのことよ」
そう。どれだけ否定しても、現実というものは理不尽を大量に含んで回っている。とりわけその奇妙な事象が、不必要に世界には多いだけのことだった。
右手をぐーぱーしつつ、もう一度力を込めてみた。
「え……」
右手に纏わるように朱い焔が噴き上がる。
「それは、霊力の焔ね」
「うん。この状況が霊力によって作られたなら、こっちはできるかなと思ったんだ」
立ち上がって右手を振り回す。手刀の軌跡が赤く残るのを見ると、少なくとも戦えないことはないとなんとなく安堵していた。
「とはいえ、剣術はともかく体術は習ってないからなあ」
短剣技や小太刀術のような戦闘技術は僕には合わないから避けていたけれど、どこで何が必要になるのかは、やはりわからないものだ。
「まあ、どこでどうなるかは予知できないものねえ。そんなことが出来るのは世界でもそうそう居ないわ」
「僕はそういうの、萌崎家くらいしか知らないけど、他にもいるのか?」
「私に訊かれても困る。何度も言うけど、この私は仁君の記憶をベースにした虚像なの。仁君が知っている以上のことは知らないし、具体的なアドバイスはできないわよ」
そうだった。馬鹿な真似を繰り返すのは嫌いなので、そこは素直に反省すべきだった。
「つまり、僕はこの空間を一人でクリアしないといけないのか」
「そういうこと。まあ、アドバイスはできないけど、君が深層神経で感じたことくらいは教えてあげられるわ」
「深層神経?」
「まあ、第六感ってものだね。そういった『勘』を言葉にして伝えるって意味よ」
後は話し相手になるくらいかしら、と困ったように首を傾げた。
僕がノエルに会ったのは六年前だったけれど、この時にこんな仕種を見せるような行動は取っていなかったはずだ。僕の持つ記憶に、何かが上書きされているような感覚がどこかにあった。
まあ、どうでもいいか。
再び歩き出すと、土の地面がいつの間にか砂利敷きに変わっていた。何の意味があるのか知らんが、スニーカーが傷みそうだなあとなんとなく思っていると、後方から何かが飛んでくるのを感じて、慌てて屈む。
左膝が小石に当たって痛かったけれど、それよりも飛んできたものを確認する方が先決だった。
「仁君、まだ来るわよ」
「くそ」
思いきり弾丸だった。この空間で死んだところで現実の僕がどうにかなるとも思えないけれど、だからといってただ苦しいのが延々と続くのも御免被りたい。
「弾速はそれほど無いから、目視でも躱せるけど。どこから撃ってるんだ、これ?」
視力の低さを恨んでも、そもそも見える範囲に敵がいないのは明らかにわかることだし、意味が無い。それより、周囲になにもない場所でただ弾丸を躱し続ける弾幕シューティングに付き合ってやる気なんてさらさら無いのに、その敵がいない時点でゲームとして壊れている。
「理不尽だなあ」
「それも人生よ」
知った風なことを。これが僕の考え方なら迂闊に否定もできないけれど、もともとは母親から受け継いだ思想だったはずだ。それをどうしようとも何の結果も得られないのなら、触れないでおくだけだ。
左手に焔を灯し、飛んでくる弾丸を受け止めてみた。
掌に着弾した瞬間、白く発光して炸裂。空気を震わす破裂音はしかし、僕の耳には何の残響も残さない。
驚いたことに、左手にも影響はなかった。
「霊弾か。炸裂弾の遣い手と言うことでもないんだろうけど」
「霊力同士は干渉し合うから、その手の焔であれば防げるのね。ただ、それが解っても、相手は掌以外のところを狙ってくるだけだろうけど」
「ノエル、でかい結界とか張れないのか」
「仁君の思考リソースを大量に割くことになるけど、構わないのね?」
「やっぱいいや」
魔術に関しては僕には理解しえない物理の法則を転用しているらしいから、少なくとも高校で習う程度の物理化学の知識は必要になるらしい。一般的な知識しか持たない中学生の僕には到底無理な話だ。
「さて、隠れる場所でもあれば少しは違うんだけれど」
「穴でも掘ってみる?」
「そんな時間は無いだろ。ここまで徹底して攻めてくるのに、対処する時間を与える馬鹿は居ないさ」
何も無いことが最大の攻め手であり、時間稼ぎを許さない最良の手段だと思っていなかった。実際に喰らってみると最上級に苛立つ計略だ。
かといって熱くなるのは趣味じゃないし、どうにかして事態を打開したいのだけれど。
「つうか、さっきから的確にヘッドショット狙ってくるんだけど?」
「熟練のスナイパーでもそれは難しいのにね」
数秒置きに飛んでくる弾丸が、正確に顔の真正面を狙っているのに気付くには、大して時間は要らなかった。
どこか誘導されているような感覚はあったものの、だだっ広い平地のどこに誘導するのかと疑問でしかない。フィールドの最大領域はどういう術式であっても五キロ四方が限界だと言われているし、そういう意味では僕はまだ二キロも移動してはいないはずだ。
最初にいた地点が端の方だったとしたなら、中心部には辿り着けていないのかも知れない。
弾丸は受ける方が楽でも、その間移動できないのが難点だ。かといって躱し続けるのはもっと精神を食い潰してくるのだから、どうしたって大差はない。「仁君、足元に気をつけなさい」
「え、」と唐突な注意喚起に問い返す間もなく、足元に置かれている何かに踵を引っかけて思いきり無様に転んでしまう。しかもその何かは石でできているらしく、咄嗟の受け身も意味が無かった。
「痛うっ……何だよこれ」
痛みに身体を軋ませながら立ち上がると、その瞬間に弾丸が飛んでこなくなった。そんなことを不審に思いながら、足元の石を観察する。
「黒曜石だ」
そんなどうでもいいことを発見しても何も嬉しくない。太陽の熱で熱くなっているのかと思うと、触れた部分は冷たい。とことん物理法則を無視してくる異様な幻覚だった。幻術にリアリティが要るのかどうかは知らないけれど。
「取っ手がある。これは蓋、いや扉か?」
「開けてみた方が早そうね」
そうだな、と思いきり取っ手を引っ張り上げてみる。地面を隠すような蓋は予想より軽く、両開きになっている真ん中から隙間が生じ、その奥の冷気を脚に感じていた。
がたん、と開ききった石の扉。その向こう側には花崗岩でできた階段が、闇に溶けるまで続いている。
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