二節「黒い檻」

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二節「黒い檻」

「古びた書籍の匂い、湿気た空気、日の当たらない冷えた内壁……」  階段を下りながら伝わってくる情報を一つ一つ確認していく。一段ごとに自分の感覚が狂っていくような、神経の歪みが視界を回す。 「どこかで誰かが泣いている」 「僕には聞こえないけど、僕がそう理解しているってことでいいんだな?」 「ええ。仁君の感覚範囲は普通の人間より以上に広いから、君が意識しなくとも、そういう情報は深部で理解できているの」  誰か居るのか、という問いにはノエルは答えなかった。必要以上に語らないのは彼女と僕自身に共通する性質だった。  どれくらい下りていっただろう。振り返って入口を確かめると、既に見ることができず、狭い階段の壁に設置されている松明の灯りが揺れているだけだった。  今更引き返す選択肢もないので、そのまま下りていく。初めて味わうはずの空気の匂いなのに、どこか懐かしさを感じているのはあまりに不可解だった。既視感がこんな所で出てくる理由は無かったはずだが。 「仁君はこういう場所、苦手よね」 「まあね。あの場所を思い出す」 「それでも進めるのは、何でかしらねえ」  意地の悪い質問だ。僕の思考をトレースしているとは思えない言動にむっとする。 「なんだっていいだろ」  返事はなかった。ただ、感覚で小さく笑ったのが判る。  踏んだ床の感触が変わったので足を止めると、階段が終わっていた。地下の深い場所に作られた空洞にしては整いすぎている空間が拡がっている。ゲームのような簡単に空間を作るシステムでもあるのだろうが、現実では再現しようがないことは簡単に知れる。  光の色が焔の橙色から青白い蛍光色に変わっている。しかしこの中には蛍光灯は見当たらず、部屋の至る所にある灯台の上の蝋燭が、その光を発し続けている。  近づいてみれば焔ではないようで、発光している物体は完全な球体を描いている。どういう仕組みかは考えても解らないだろう。  その灯台の光量を以てしても部屋全体を明るくすることはできていない、その容積がほとんど何かの書物で埋められているのが不自然といえば不自然だ。この空間の主がどのような指向を持っているのかは判らないけれど。 「……ん? これは」  迷路のように入り組んだ机の間を抜けていくと、奥の方に金属の塊が置いてある。普段目にするそれよりいくらか小さく、一見して小太刀のようにも見えたそれは、しかし違う。 「短剣だな。しかも、二本―――双剣って奴か」  手に取ってみると、質の良い包丁のような重みがある。すぐ傍には砥石が置いてあり、常に手入れされているような演出をしている。 「幻覚にしては造りが細かいな。一体何のためにこんな真似をしているんだろうな」 「さあね。どうあれ、この空間にはモデルがあるように思えるけど」  ノエルがデスクの上に積まれている紙を一枚とって眺めている。しかしすぐに顔をしかめて握り潰してしまった。 「読めないわ。どうやら現代の言語とは違うみたい」 「存在しない言語ってことかな。そんなものを用意する理由も全くわからないなあ」  この場所に何があるのか、術者は何を求めているのか、まるで解らない。  念のために置いてある剣を取り、傍に置いてある鞘に収めて腰に帯びた。短剣術は習っていなくとも、感覚でなんとかなるだろう。 「この鞘が革製ってのが不安なんだけどな」 「わがままねえ」 「うっせ」  仕方ないだろうに。普段使っている刀の鞘が木製だというのを前提にして、実際は防御にも使っている、変則一刀流なのだから。 「行村君は私も一目置いているからね、その一番弟子となれば期待値は上がるわ。仁君の精神性は、剣士に向いているかどうかは知らないけれど」  初めて会った時に全く同じことを本物のノエルは言っていた。僕のことを知るより以前に先生に会っていたらしいことも言っていたと思うけれど、記憶が定かではなかった。  先生はその時のことを話してはくれないけれど。 「おっと」  気付かずに埋もれているドアの前を素通りしかけた。木製ラックに巧妙に隠れている為に見過ごす筈だったのだろう、そういう隠され方だった。  はて、ならばどうして僕はこのドアに気付いたんだ?  首を傾げても解るわけもなく、仕方なく考えるのを止めてドアに手を掛ける。ドアの向こうから何かの震動が手に伝ってくるけれど、開いてみなければそれが何なのか、知ることもできない。  えいやと扉を押し開ける。  その瞬間、濃厚な血液の匂いが鼻をついて、一瞬だけ全身が硬直した。嗅覚が全て血液に塗り潰されて、本能的な恐怖が呼び起こされる。 「仁君、それは錯覚よ」  動きの止まった脚がその言葉で回復する。目を逸らすのをやめて、その匂いの元を直視してみる。闇に沈む深く朱い炉の中身が、うねりながら血液を撹拌している。  十メーター四方の大きな窪みの中にはマドラーのような器具があるわけでもなく、何か霊的な、魔術的な手法でうねりを再現しているようだった。 「発電施設のようなものかしら。人間の血液で生成されるのは電気じゃなくて邪気とか妖気、魔力の類だけれど」  同じような結論に、僕も同時に至っていた。これほどの量の血液を用意する方も異常だし、それに関して何も思わない方も異常だろう。  だからこそ、ここを隠し部屋にしていたのだろうか。 「まあ、人には見せらんねえからなあ」  扉を閉じて、離れた。すぐ傍にあるデスクに寄りかかって、困惑する頭を落ち着ける。 「ん? 誰か来るかも」 「…………ここでバトるのか? 難しいぞ」  こんな障害物だらけでも、環境的には有利とは言い難い。さっきまでの何もない空間でもキツいけれど、そもそも遮蔽物を利用する戦い方を習ってはいないのだから、対応できない戦術が多いのは仕方ない。 「仁君は開けた場所での一対一がメインだものね。剣士らしいというか、なんというか」 「仕方ないさ。先生にも悪い意味で愚直だと言われているし」 「くすくす」  精神的にある程度戻せてはいたけれど、それでも戦闘に意識を移せるかは難しい。どうせどんなコンディションであっても、戦わなければならない状況は巡ってくるのだけれど。  と、そこで僕の聴覚にもはっきりと足音が聞こえてくる。ノエルの感覚情報は僕の深部感覚だと言っていたけれど、僕には基本的にソナーみたいな真似はできやしない。感知できても意識できないのでは、明確に扱うことはできないのだ。  がつ、がつ、と爪を地面に打ち鳴らす音が聞こえる。金属音とも確実に違うそれは、どうやら四足歩行をしているらしい。 「―――」  はああああ、はああああ。  生温い熱を持った吐息が耳につく。猛獣のそれなのだろうか、僕には理解しえなかったが、本能が危険を感知して再び竦みそうになるのを堪える。  爪が、地を噛んだ。一瞬の溜めの動作を感じ取った僕は、殺気を放出しながら思いきりバックステップする。距離を離して視界に現れた相手を確認することを優先して、その影を強く睨めつける。  全身を黒い毛に包んだ獅子。凶暴さを誇示する紅い眼球が、緩やかに僕を捉える。 「ぐ……」  双眸からほとばしる純粋な殺意が、威圧感をもって僕を圧し潰そうとしている。それに怯んだ一瞬に、獣は距離を詰めてくる。十メーターを一息に稼ぐ脚力それ自体はこのサイズの動物なら持っていてもおかしくはない。  だが。  人の身であってもそれは実現不可能でないと知っている。  無意識の僕が瞬間で短剣の片方を抜いて、飛び出す。すれ違う軌道で動き出す僕に、獣は正確に対応してくる。しかし、僕はさらにそれに対応していた。  学校で見ていたある生徒の体術。身体を極限まで前傾させて高度を殺し、絶対に躱しきる『超低空ドライブ』。この技はもともと藍樹が頻繁に喰らっているのを見ていたし、彼女の小柄な体躯でこそ活きる体術ではあるけれど。 「くっ!」  潜り込んだ獣の腹部を上半身を捻りながら斬りつける。そんなもので殺せるとは思えないし、思わないけれど、しかし一定の効果はあったようだった。  床に足を引っかけて転がる。反射的に受け身を取って獣の方に向き直れば、ソレは恨みがましくこちらを睨めつけている。腹部から少なくない量の黒い液体を撒き散らし、すぐ近くに立っているノエルには見向きもしないで殺意を僕だけに向けてくる。 「見えていないのか」 「そりゃあそうよ、私は仁君の意識が生み出した幻覚上の虚像だもの」  相手には僕が一人で何か喋っているように見えていると言うことか。単なるヤバい奴な気もするけれど、今はそんなことを議論している暇はなかった。  霊弾が使えればもう少しまともに戦えるのだけれど、ここで中距離の攻撃手段がないのが痛い。精神世界で管理者権限を持っていないなら、普通ここで勝てる相手を寄越すのもおかしな話だけれども。  勝てないと思っていたなら、それは見込みが甘いだけの話。  ぼやけた意識が、勝手に身体を動かしていく。  さっきと同じ、十メーターほどの間合いを開けているが、僕にはもうどうでもよかった。視線を合わせた瞬間に地を蹴って、一歩で間合いを詰める。巨大な獣は驚きもせず、ただ眼を光らせて。 「っ⁉」  全身に言いようのない衝撃を受けて弾かれる。空中を舞った感覚の直後に背中から床に叩き付けられる。その途中で薙ぎ倒した書類の山が崩れて舞い上がるのを、ただ見るだけ見ていた。 「痛みがリアルすぎるな。幻術って痛覚にも干渉できるのかな」 「違うよ、そんな高度な処理は幻術じゃなくて電子的な仮想現実の領分だわ。この場所での痛みは、仁君自身の脳の処理をベースにしているのよ」  つまり、戦闘において痛みを感じないレベルまで昂ぶれば、実際にも痛みを感じなくなるってことか。  ここまでの幻術を扱える術師はそうはいないはずだが、それを行う意味は一体何にあるのだろう? 「幻術の出来事でアドレナリン過剰になってもねえ。現実の身体にどう作用するか判らないし、あまり本気にならない方がいいんじゃないの?」 「そうだなあ。いつもの癖だからどうしようもないけどさ」 「どんな生き方してるのよ、普段から」 「昔から変わらないよ、知っているだろうに」  全く、とノエルは笑った。その笑顔に呆けていると、その間に右手を獣に向かって突き出していた。 「風顕・渦嵐」  舞い上がった風がそこかしこにある紙を吹き飛ばし舞い上げる。その暴風に、僕も獣も視界を奪われていく。なるほど、木の葉隠れをしようということか。 「逃げるよ、アレは後回しにしよう」  まあ、倒さなければ進めない類のイベントではないらしいから、退避もまあ戦略か。そう判断して紙が吹雪のように吹き付ける中を抜けて部屋を出た。よく見ればシャッターが付いていたので、とりあえず下ろしておいて、先へ進む。  僕たちが下りてきた階段の奥には、さらに下へ続く階段が用意されていた。その奥からは、人のものと思しき声が聞こえる。  その声がひどくおぞましく、心臓の奥が凍えるように収縮した。
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