二節「黒い檻」

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「…………っが、あ」 「仁君、しっかりしなさい」  衝撃に潰れそうになる身体の痛みが、鈍く精神まで蝕んでいく。ノエルの声も、どこか曖昧に聞こえる。  この幻覚、想像以上に現実だ。 「いい度胸だよ、ニアータ」  呟いた声は、何故か彼女の名前を知っている。記憶の底に染みついているかのように自然に溢れていた。  同時に、短剣の片方を抜いて立ち上がり、切っ先を少女……ニアータ=ハクマに向けて睨みつける。 「わからないって、言ったのに。嘘を吐いたの?」 「名前しかわからん。なんなんだ、お前」  ニアータは答えない。その代わりに指がくいっと動く。その動きに合わせてぬいぐるみが右フックを放ってきた。この質量の攻撃を受けて立っていられるのは奇跡的なので、これ以上ダメージを受けるのは避けるべきだった。だからこそ。  その攻撃に受けて立つのではなく、最小限の動きでその拳をいなしてリーチの内側に入り込む。  剣の刃に沿って滑った拳は行き場をなくして後ろの壁を殴りつける。土の壁は拳によって崩れ、周囲に細かい粒子となって散っていく。それが丁度よい煙幕となって、全員の姿を隠していた。 「ルルくん、薙ぎ払って」 「赤火・焔刃!」  軋む全身を奮わせて、赤く発光する焔を刃に纏わせる。この技が、光牙流という流派の特徴だった。  右から来るぬいぐるみの腕を姿勢を低くすることで躱す。至近距離では真横に腕を振るったところで当たりはしない。  その場で回転しているぬいぐるみの傍でしゃがみながら、次の手を考える。  回転には限度があるだろうし、ニアータの攻撃はこれを中心にしたものと考えていいだろう。本人の体術がどうなのかは知らないけれど。 「そんなところに居たの」  真上から聞こえた声に視線を向ければ、ニアータが回転を止めたぬいぐるみの上で僕を見下ろしていた。視線の圧力に竦みながらも、恐怖をコントロールできるくらいには慣れてしまっていた。 「ふん、足掻いてみせるのは結構だけどね」 「そういう人生でな!」  刃の先に殺気を凝縮して、そのままぬいぐるみに叩き付ける。  赤火・覇焔。光球の焔が炸裂して、ぬいぐるみがニアータを載せたままぐらりとバランスを崩す。意識が僕から外れた一瞬に跳び上がって剣をぬいぐるみに突き立てる。  しかし表面が布ではないらしく、切っ先が突き破ることはなかった。それでも最小限の引っかかりを利用して登っていく。クライミングは初めてだけれど、できるとかできないとか言ってもいられない状況なのは今更だ。 「振り落として」 「くっ……!」  再び横回転を始めてきた。落とされてたまるかとしがみついたら、ニアータ自身が右腕を振り上げていた。その拳を振り下ろす前にこちらも剣を振るった。  じくり、と腕に痺れるような痛みが走った。派手な音こそなかったものの、確実に骨折するレベルの衝撃だった。 「き、つい、な……」  ギリギリのところで剣を落とさなかったけれど、これ以上の戦闘行為は危険と判断しても正しいはずだが。しかし相手に殺意がある以上、ここで詫びを入れても無駄だとは簡単にわかる。  ここで一度死ぬのも手だとは、考えにくかった。幻覚で人を殺す術師を知っていると、その手段も危険でしかない。 「何を考えているの? いま、死ぬのに」 「ほざけイミテーション。そんな偽物の身体で僕を殺せるか」  反射的に口をついて出た台詞に、ニアータがびくりと震えた。表情には驚愕が浮かんでいる。 「わたし、偽物じゃないっ……!」  激高して、再び拳を振り上げる。そのまま殴るのかと思っていたら、しがみついていたぬいぐるみが両腕を振り上げた。 「んあああっ!」 「うおああっ!」  ニアータはその場から跳び上がった。モノトーンのゴスロリワンピースという無茶苦茶動きにくそうな服装で、とんでもないパフォーマンスを見せてくれる。 「ルルくん、叩き潰してっ!」  ぬいぐるみが動き出す前に手を放して地面に戻る。大きく飛び退り、相手のリーチから大きく外れようとしてみたけれど。  ぐおん、と重い音を上げてぬいぐるみが突撃してきた。 「やっべ……逃げ切れない」 「風顕・スライウィング!」  呟くと同時にノエルが術式名を叫ぶ。そんなもので何をしようと、と言いかけて自分の脚に起こる変化に気付いた。  大きく空気を裂いて、両脚に渦を巻く風がまとわりついている。  意識を向けてイメージを起こせば、その想像に呼応して風が動く。  風が弾け、自分の身体が宙を滑っていく。十メーターは離れたところでくるりと回転してその場に留まる。大仰に地面を揺らして追いかけてくるけれど、空中に居ればその影響は受けない。  どうして僕がこんな魔術を扱えるのかはよく解らないけれど、使えるものは使った方が良いだろうという判断だった。 「うあああっ!」  ニアータが乗っかっていたぬいぐるみの頭の上から僕に向かって跳び上がり、恐ろしささえ覚える速度で首を締め上げようとする。  咄嗟の判断でも間に合わない速度の攻撃に、驚愕するしかない。ただ、その跳躍で僕の首には僅かな切り傷ができただけだったが。 「ぐぎぎぎぎぎぎ!」 「…………何でだよ。どうしてそうまでして僕に殺意を向けるんだ」 「こんな救いのない世界にわたしを、ただの化け物として蘇らせるからだよ」 「何を言っている? 僕は何も―――」  言いかけて、その瞬間に頭の奥で刺すような痛みが走る。集中が切れた一瞬を突いて、ニアータが僕を地面に叩きつけた。 「ぐあっ……」  何か、走馬灯のように脳裏に映像が走っている。しかし、それら全てが全く見覚えのない別人のものであったなら、どういうリアクションをすればいいのだろう。  万力のような力で首を締め付けてくる。ほとんど体重もないくせに、物凄い圧力だ。必死で抵抗してもこれではすぐに首を折られてしまうだろう。 「ぐ、があ!」  脚に絡みつく風を全力で解き放つ。空間全体に暴風が吹き荒れ、僕とニアータの身体もその余波で吹き飛ばされる。その一瞬に、首を絞める力が僅かに緩み、微かな量の霊力を全身から放出する。 「熱っ……」  空中で分離して三メーターほど離れて着地する。僕の全身から立ち上る赤い焔に、ニアータは息を呑んだようだった。 「やっぱり、人間は危険だ」 「今更だろう。危険でない存在なんか居ないだろ」  ぎり、とニアータの歯が鳴る。よほど僕の言葉が苛立たせるのだろうか、殺意を明確に僕にぶつけてくる。しかし、もうそれは恐るべきものではない。  なぜなら、彼女が僕を睨みながら、ぼろぼろと泣き出してしまったからだった。流石にそんな状況でこれ以上戦闘を続けられる冷酷さは僕には無かった。 「あの?」  その場で泣き崩れることのない精神力は感嘆すべきだけれど、しかし女の子に泣かれる状況に慣れていない僕には、どうすればいいのかがよくわからない。ノエルに訊いてみようにも、あらぬ方向を見て地下空間の探索をしているようだし、役に立ちそうになかった。 「なあ、ニアータ。ここに居たくないなら、外に出ようよ」 「え……?」 「嫌なんだろ? だったら出ればいいのに。それができるのにしなかったのは、何か理由でもあるのか?」  涙を拭いた彼女は何度も瞬きしながら考える。不可解そうに首を傾げると、ろくに手入れもされていない長髪がゆらゆらと揺れた。 「出られなかったの。牢を壊しても、扉が開かないから」 「扉? 結界でも張ってあったのかな」 「そのようね。真祖は霊力を持たないから、その手の術式には対応できないのよ。今の人間はほとんど知らないことなんだけれどね」  知っているとすれば「檻」と世界各地の情報収集機関、後は萌崎家くらいかしら、と付け足す。萌崎家には知り合いがいるし、後で訊いてみた方が良さそうだ。  霊力を持たない存在は、現代では非常に珍しい。普通、生物は肉体と魂を繋ぐために霊力で魂をくるんで肉体に収めている。それをしていないのは、人間とは根本的な身体の造りが違うのだろう。 「幻覚の中で人助けってのも、馬鹿らしいのか僕らしいのか」 「どうにもただの幻覚だと判じきれない部分が大きいのよね。それを特定するコードは見当たらないけれど」  確かに、幻覚にしては感覚が鮮明すぎるとは思っていた。どちらかと言えばこの空間は仮想現実に近いものだと認識していた。そうでなければ現実と同じ感覚で戦えることが不自然だ。 「まあ、ここを出るのには賛成なんだけどね。それをするなら、アレをどうにかしないとね」  ノエルが指差した方向に視線を向ければ、ニアータの入れられていた牢の反対側の檻が壊され、その奥から闇より深い漆黒が漏れ出していた。  さっきの風で壊されたとノエルは言うけれど、そんなことを落ち着いて聞いている余裕は僕には無い。 「アレはまずいよ。いつまでも消えない闇そのものだから、物理的には斃せないと思う」  ニアータが掠れた声でそう呟く。  そんなことは解っていた。おそらく結界はニアータを閉じ込めるためではなく、あの「くらやみ」を外に出さないためのものだったのだろう。しかし、その結界は現在機能していない。ここに入ってくる時、ドアを開け放していたのが裏目に出てしまっていた。 「なんで開けっぱなしにしてたの?」 「逃げる時の為かな。そこで時間を取られるのも面倒だからね」  もう意味ないけどね、と自虐的に肩をすくめる。そうしてから腰に帯びているもう一振りの剣を抜き放つ。 「二刀はやったことないけど、そうも言っていられないからなあ」 「でも、ここを抜けないと、わたしたち死んじゃうよ」 「そういうことを言うってことは、お前は生きたいんだな」 「死にたくないだけだよ」  ニアータはそっぽを向いて、スカートのポケットからもう一つのぬいぐるみを取り出した。同時に僕も左脚を引いて構える。右手の剣を通常、左手の剣を逆手に持って、その手を前後に持っていく。 「ニナくん。いくよ」  ニアータの呼びかけにぬいぐるみが、硬質化して膨れ上がる。熊をデフォルメしたそれは、さっきの兎のぬいぐるみとは体格が違っていた。  それに反応するように「くらやみ」がその体積を増大させて僕らに触れようとする。 「赤火・焔砲」  伸ばした右手の剣から赤い焔を撃ち出す。剣術の突き技の延長線上にある遠距離技だった。  その焔はあっけなく闇に呑まれて消える。それを確認すると同時にぬいぐるみが飛んでいき、大きく質量を増大させた拳を叩きつける。  その重い一撃を「くらやみ」は打点を拡散して躱す。物質での攻撃は有効なのかわからないけれど、少なくとも避けさせることはできるらしい。  僕は両手の剣に霊力を流し込み、赤い焔を大きく放出する。 「赤火・焔幕!」 「くらやみ」の視線が外れたのを確認して、僕は横に跳んだ。焔が呑まれる瞬間、ぬいぐるみが天井に足を付けているのを確認してから、今度は素のままの刃で真横から斬りつける。  するりと髪を梳いたように呆気ない手応えしかなかった。  しかしそれでも黒い欠片が散って消えるのを見て、それこそ有効だと知った時、上から伸びた黒い腕が僕の左腕を呑み込んだ。 「う、ああああっ!」  灼かれるような激痛が腕に走り、反射的に右手の剣で「くらやみ」を切り離し、転げるようにして大きく距離を取った。 「仁君!」 「きみ、危ないよ。体術であんなのと立ち合うのは駄目だ」  涙の浮かぶ視界にニアータの呆れたような表情が映っている。しかし、さっきまでの敵意は見当たらない。 「わかってるさ。でも、そうしなきゃ立ちゆかない状況には幾らでも遭遇してんだよな、昔から」 「よく死ななかったね」 「まあ、死中に活を見出す方法はいくらでもあるからな。しかしなあ、この剣はリーチが短くていつも通りには戦えないな」 「仁君は刀に慣れているものね。確かにあれだけ違えば戦法も変わってくるだろうけれど」  痛む左腕を見ると、硫酸に焼かれたような爛れた皮膚がある。僕にはこんなもの、どうってことはないけれど。しかし即時の対応が求められる戦闘中では脚を引っ張ってしまう。  だったら、と左手の剣を「くらやみ」に投げつけた。手裏剣の要領で打たれた剣は「くらやみ」の中央の辺りに突き刺さり、一瞬だけ動きを止める。  その瞬間、ニアータが「ついっ」と左手の指を振った。  天井に張り付いていたぬいぐるみが勢いよく落下して、「くらやみ」の靄に潜り込むように打撃を与える。  地面を揺らして叩きつけられたぬいぐるみが再び跳び上がると同時に「くらやみ」が四散して、視界が少しの間だけ晴れる。 「今だ、逃げるよ」  ノエルのそんな言葉を聞いて、迷うことなく走り出す。右手には剣を持ったまま、左手でニアータの手を引いた。 「あ、」 「何呆けてんだ、行くぞ」  拡散した「くらやみ」が元に戻る前に、ぬいぐるみを回収して奥底の牢を抜け出し、くぐった扉を閉じた。その瞬間、鉄の扉が嵌まっている壁全体に蒼い光が走る。  ばきん、と音を立てて結界が再起動するのを確認してから、二人でその場に座り込んだ。橙色の光に照らされる空間は、未だ土の地面が剥き出しになっているままだったけれど、そんなことには構わなかった。 「危機は抜けたかな。僕一人じゃあ、無理だったけれど」 「どうして、わたしを連れ出したの? あのまま置いていく選択もできたのに」  心底から不思議そうに、ニアータが僕の顔を覗き込んできた。前髪で隠れている左眼が、ふるる、と揺れたのが見えた。 「んー。置いていくとかできないよ。僕はそういう人間だから、と言うしかないかな。そんな理由じゃ不満かな」 「真祖が人間に助けられるなんて、ってヴィズリ辺りなら言うんだろうけど。わたしはそんなプライドないから」  独り言ちるように口にした言葉はよく判らない。 「ありがとう。それくらいしか言えないけど」 「いいよ、気にするな。これも何かの縁だろうけど、しかし幻覚っぽくなくなってきたな、この状況」  休憩もそこそこにして、立ち上がった。回復が早いのも僕の特徴だった。  外に出て、何をしようか考えよう。そう判断して、上に伸びる階段を見上げた。 「ん?」  何かがおかしかった。  地下空間で有り得ないはずの、外からの空気の流れが階段を伝って降りてきている。 「足音は聞こえないわよ。人の気配も感じられない」 じゃあ、何なんだろうか? 「僕の探索でもよく判らないけれど。行ってみよう。近づけば何か判るだろ」
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