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この光景を見せてやりたいと思った。
けれど素直に『蛍を見にいかないか』とは口に出来ず。
気恥ずかしさを押し隠して、少々無理な理由を付けて彼を誘った。
『お前なぁ。その顔鏡で見てみい。閻魔さんも尻尾振って逃げそうなほど酷い事になっちょるぞ』
『え、そう?』
『気張るんはええが、そねえなことして体を壊しでもしたら元も子もないぞ』
『でも、たださえ皆より遅れているし・・・』
『あのなぁ・・・たまにゃあ俺の言うことを素直に聞いちょれよ。・・・しゃあない、ここは一つ。井上勇吉様がお前の気晴らしにひと肌ぬいでやる。三日後の夜、俺様に付き合え』
『え、そんなのむ・・・』
『ええな!』
月が頂点を少しばかり過ぎた頃。
灯りも要らぬ月の下に二つの影が躍るような足取りで目的地へと歩みを進めている。
一つが前に出ればもう一つがそれを追い、突然一方が立ち止まると背後にいたもう一方が慌てたように転びそうになるという具合だ。
その様子に歩みを止めた方が思わず噴出しそうになるも、周囲を伺い何とか両の手で口元を押さえるだけで封じることが出来た。
「ねえ、勇吉。不思議だね。いつもならすごく眠くなってしまう時分なのに、今はとても頭が冴えているよ」
「それはいい意味でか?」
「もちろんだよ」
そういってにっこりと笑みを寄越した。
それを見て満足した勇吉はひとつ咳払いをすると得意満面に口を開く。
「そらぁ、ええことじゃな。今の新は学ばなにゃいけん学問もあるとは思うが、そう年中机にへばりついとるのも体に悪いからの。たまにゃあ気分を変えてみるのも学問のうちと思うて楽しんどればええ」
「うん、そうだね」
大きな声では言えないが夜中に家から忍び出るという家出まがいな事をして養父たちに知れれば大変な心配を掛けてしまうであろうことはわかっていた。
けれど妙に気分が昂ぶっていて・・・・・。
それが不快なものでない事は、『好奇心』という魅惑的な誘惑に誘われた二人の少年の瞳の輝きを見れば容易い。
「ねえ、勇吉。僕たち何か悪いことでもしてるみたいだね」
心の臓が今にも飛び出してしまいそうだと自身の胸を掌で覆う。
「しとるんではのうて、現にしとるんじゃ。内心俺は気が気ではないわ」
「ふふふ。いけないことだけど一寸楽しいな」
「じゃろう?まあ、日の出前に戻どれば問題なかろ」
本心では駆け落ちも良いななどと不謹慎な考えも正直思ったりもしたが、それは口には出さない。
二人は額をつき合せるような形で互いを見合うと、きししと笑い合った。
森の中の小さな小川。
草鞋をぬいで素足を水につければ湿り気を含んだ外気も気にならなくなる。
ちろちろと水の流れる音が耳に優しく入り込んで、しばらく二人は言葉も交わす事無く川辺に座りこの静寂を楽しんでいた。
見上げれば生い茂る草木によって月光は遮られ、その隙間より僅かな光しか届きはしない。
木々の香りが鼻腔をくすぐり、川の水によって冷やされた風が頬を通り過ぎてゆく。
やがて、風が止み、月が雲に隠れ・・・・・・
───────── 一色の光が、彼らの世界を包み込んだ。
明かりもなく闇に閉ざされた中でふわりと舞い上がる緑の光。
それは次第に数をなし、地上から湧き出る水の如しの勢いで二人の世界に色を施した。
掌を翳してその正体を確かめようとするもひらりと交わして漆黒の中に閃光を描く。
その光景はこれまで見たどの色彩よりも美しく摩訶不思議なものであった。
瞬きするのも惜しいと思うくらいに、それは自然が織成す素晴らしい美だった。
「きれいだな・・・」
吐息のように零れた言葉に笑みが浮かぶ。
たった一言。
その言葉を聴けただけでも自身が苦労をした甲斐があったというものだ。
「じゃろう。ここは蛍見物の穴場なんじゃ」
「これを僕に見せるために連れて来てくれたのかい」
「・・・・・まあな」
勇吉は手にして来ていた荷物の中から酒の入った竹筒と、家から拝借してきた杯を二つ取り出す。
この杯は勇吉の父親のお気に入りで、特別な時でしか使用しないと分かっていた。
勇吉にしてみれば今宵が特別な夜であり、大人の真似を少しばかりしてみたかったのかもしれない。
見つかれば大目玉を食らうことは覚悟の上だった。
「どうじゃ。蛍の舞を見ながらの一献は」
にやりと笑う勇吉に悪びれた様子は一欠けらも伺えない。
そればかりか新が断らないであろう事も見抜いているのだろうか。
「大した策士だよ、君って奴は」
そう言って差し出された杯を受け取った。
「勇吉」
「うん?何じゃ」
「ありがとう」
「・・・ん」
照れ隠しに随分素っ気無い返事をしてしまったが、本当は踊りだしてしまいそうになるくらい舞い上がっていた。
汚れた自身の姿など彼の脳からは遥か彼方へと追いやられ、家に帰った後の事等知ったことかと酒を煽った。
ただ彼の心が癒されれば良いと。
本当の笑みを見せてくれただけで満足だった。
雲が開け再び見事な月が姿を現す。
「なんじゃい。もうお月さんが顔出したぞ」
勇吉の呟きに新は声を出して笑い。
笑われた本人はお前の所為だと頭上にある罪も無い月を睨む。
いつだって憎まれ口は一人前。
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