【長州】ほたる

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大地を容赦なく照りつけていた太陽も姿を隠し、皆が寝静まる頃には涼しげな風が縁側に吊るされた風鈴をゆらゆらと揺らしている。 静寂の中に虫の音が心地良い風情を施して、床につく人々を眠りの淵へとやさしく誘う。 そんな時分。 ひとりの少年が自身の寝床からむくりと起き上がると、部屋の物陰に忍ばせていた荷物を抱えそろりと家から忍び出る。 手元を見ると荷物と共に少年のものであろう草鞋が一組指に引っ掛けられており、履く余裕も無いのか裸足のまま家から二軒ほど離れた所でようやく詰めていた息を吐くことができた。 「家を抜け出せたのはええが・・・こねえな夜に満月とは俺もついとらんの」 今宵は運が良いのか悪いのか、見上げれば日中に現れるお天道様でさえ怯んでしまいそうなほどの大きく円を描いた月が柔らかな光を降らしている。 自身が思い描いていた情景とは遠くかけ離れたものとなり、灯りも要らぬ視界の中で直ぐ傍に転がっていた小石を八つ当たりとばかりに蹴り飛ばす。 それでも癇癪は収まらず月に向かって文句を言ってやりたい心情に駆られたが、沸き起こった怒りが脳裏に浮かんだ人物によって容易く引っ込んでしまうのが可笑しくて思わず苦笑が漏れる。 「俺も大概阿呆かの」 つい今の今まで憎らしげに感じていた月が突如としていとおしくなり、片手を挙げて夜空へ向けて大きく振るとその場から勢いよく地面を蹴り出すのだった。 井上勇吉の住まいがある湯田から萩までの距離は徒歩でゆうに一刻は掛かる。 それも大人の足での話であるからまだ元服もすませていない歳の彼にしてみれば全力で走らなければ約束した月の傾きまでには到底間に合いはしない。 夜半とはいえ季節は夏。 まだまだ涼しくなるのは先の事で、じっとしていれば涼しいと感じるものも勇吉のように猪の如く走っていればさらりとした肌触りの良い布で仕上げられた着物の下が酷い有様になっていた。 袴の下は更にひどいものだろう。 想像するのも非常に恐ろしいことである。 勇吉に至っても普段であったならとても耐えられるものではなく、ただの友人同士の約束事であるならば多少の遅れも許されるだろうとすぐさま足先を近くの小川に向けてしまうのであるが、今宵ばかりはそうはしていられない。 それもこれもすべては淡い恋心を抱いている相手がこの道のずっと向こうで待ってくれているだろうから。 たとえ今この場で小石に躓いて骨を折ろうが、川に落ちて流されようともきっと辿りついてみせると鬱蒼と草木が生い茂る山道であろうとも、勇吉は我武者羅に野を越えまたも山道を越え少しでも近づこうと膝ほどの深さもある川をも越えた。 すべてはこの道の先に己の到着を待っているであろう人に一刻も早く会いたいと思う一心で。 想いがひとりでに昂ぶり勇吉はいよいよ意味不明な奇声を上げながらそのまま山道を駆け抜けて行った。 「勇吉!?」 まるで大地震か嵐にでも巻き込まれたのかと思うほどその姿を目にした時は目を見開いた。 今宵の十分すぎるほどの月明かりのなかで見つけた光景には平時に見る彼の出で立ちとはとても信じがたい姿で映っており、血色が良い筈の顔は泥と汗とでぐしゃぐしゃで上士の息子である筈の彼の前髪などは手も付けられないようなものだった。 二の腕まで乱暴に捲くられた着物でさえ最早元はどのような柄が施されていたのかさえも判別しかねるしろものに成り下がり、そこから覗く腕も擦り傷や泥で汚れどこで付けてきたのかいたるところに雑草が引っ付いていた。 何処かの暴漢からでも逃げてきたのかとこちらが心配するほどそれはそれは凄まじい。 「なぁに。少々近道をしっとったらこんな有様になってしもうたわ」 わっはっはと態度だけはいつもと変わらぬふてぶてしさだ。 「もう、心配したんだから。・・・だけど勇吉だけこんなに大変な思いをするんだったら、僕も足を伸ばすべきだったね」 ごめんね、と頭を下げる新に勇吉は慌てるもののその優しさが嬉しくて頬が熱くなるのが分かった。 今の自身の顔が泥まみれで良かったと安堵するほどに。 「お前にそんなことさせたら親父さんに俺が怒られるわ。大切な一人息子に大事が起きたら流石の俺様もどうにもできんし」 「大切なって、大袈裟な表現だなぁ」 「大袈裟なもんか。願って願ってようやく迎えたお前じゃろ?新は知らんだろうが親父さんな。お前の事を知ったとき、絶対に養子に迎える言うてそらぁもう平時のあん人からは想像も出来んほどに騒いでな。こっちは気がふれたんじゃないかと心配しとったんじゃ」 「そうなの?」 「俺が直に見たわけじゃあないが、俺の親父が言うとった」 泥だらけの顔で笑った勇吉の白い歯がひときわ浮き立つ。 「それじゃあ、間違いないね。うん。なんか良い事聞いちゃったな」 「なんじゃぁ?俺の言う事は信用ならんのか」 まるで山の天候のように笑ったり怒ったり忙しい勇吉に思わず新は噴出してしまいそうになる。 勇吉も勇吉で本気で怒り出しそうな気配が感じられ、新は大きく開きかけている彼の口元を自身の掌で慌てて塞いだ。 もごもごと動く口元を押さえ込んで静かにと目で訴えると視線の意図を汲んだのか勇吉は素直に大人しくなった。 「まったく。今は真夜中なんだから気をつけないと。もし見つかったらそれこそ僕が父上に怒られるじゃないか」   わずかに身の丈が勇吉より劣る新は懸命に塞いでいた掌を離し肩で息を吐く。 本来であったならこの刻限に家の外に出ることは出来ない。 先程の勇吉の話ではないが井上家とさほど変わらぬ家柄である飯島家の当主が百姓の出の新を養子に迎えてまだ二年ほどしか経っておらず、武家に入ったことで多分に作法として覚えなければならないことや寺子屋で学んでいたことが簡単だったと思えるほどの学ばなければならぬ学問が山のようにあり、日々目まぐるしく過ぎ去っている。 養父たちへの気遣いや遠慮も当然あるが新は自身が出来る最大のことを懸命に励もうと連日ほとんど夜遅くまで床につかないことを勇吉は知っていた。 それを証明するのが新の目元にうっすらと表れている隈であろう。 時折無理をしてしまう新の性格を熟知している勇吉は気晴らしでもしようじゃないかと半ば強引に誘ってきたのだ。 「・・・それに無理な理由を付けて僕を誘って」 「なんじゃ今更文句を言うのか、うん?」 楽しそうだと誘いに乗ったのは何処の誰だと言わんばかりに腕組んで顎を突き出す様を見た時には口では彼には敵わないなと潔く諦めた。 「はいはい、僕の負けだよ」 「はい、は一度でええぞ」 「なんだよ、君は僕の母上かい?」 「だ、誰が母上じゃ!」 瞬時に開いた口を塞ごうと手を伸ばしたが見切った勇吉が素早く避け、その腕を今度は捕らえて引き寄せた。 唾も飛ぶ勢いで騒がれたのでは堪ったものではない。 「わっ、唾が飛んだっ。わかったから静かにしてよ」 新も少しばかり声を潜めて声音を低く文句を言う。 「あ・・・す、すまん」 我に返った勇吉は強く掴んでいた新の腕を放して、反省からなのか羞恥からなのか姿勢悪く頭を垂れて、悲惨な状態の頭を更に掻き混ぜた。 「もういいよ。からかった僕も悪いんだから」 「じゃがぁ、お前の顔に唾かけてしもうた・・・」 そう言って汚れた自身の袖でも僅かな綺麗な箇所を探して新の顔を拭こうとする勇吉にありがとうと言って微笑んだ。 直情型で行動が分からなくなるときもある勇吉だが、こういう可愛らしい事をする性格でもある男が新は好きだった。 その感情は友情の枠から出るものでは未だないが。 「それで勇吉。僕に見せたいものって何かな」 「お。そうじゃ、こんな所で突っ立っとる場合ではなかった!」 そう言うや否や持っていた荷物を脇に抱え直すと新の腕を取って歩き出す。 城下に寄り添うようにして流れる川面には闇に輝く月と共に二つの人影が戯れるように横切って行った。
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