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【浮くココロ】
翌朝は、いつもの光景が、いつもとちがって見えるように思えてならなかった。
朝食を囲む家族、満員電車の車窓、駅から会社までの大通りの街路樹。
どれも、昨日と同じなのに、昨日とちがって見える不思議。
だって・・・・・・
雅さんに下着のフィッティングをして貰ったり、試着室でキスまでしたんだもの・・・この私が。
私の地道な人生の中で、こんなに刺激的で不可思議な出来事に遭遇するとは、想像もしていなかった。
そして、『秘密』というものが、これほど重たいものだという事も知らなかった。
誰にも言えない・・・
友達にも、親にも、そして恋人にも。
心にある、甘い疼きと背徳感の狭間で、常に気持ちがゆらゆら揺れる気がして落ち着かない。
修司以外の人に恋心を抱くのはいけない事だと思いながらも、雅さんに会いたくてたまらない。
でも、昨夜の「夢」を思い出すと、雅さんを正視する自信が無い。
あんな、恥ずかしい妄想をするなんて・・・・
まだ、体の奥が、炭火の熾火のようにじんわりとしている感覚が、生々しく残っている。
そんななまめいた気持ちが、ふっと、こぼれ出てしまったのかもしれない。
「ね、昨日、何かあった?」
朝のロッカールームで、いきなり凛子に囁かれて、すぐには声が出せないくらい驚いてしまった。
「べ・・別に」
狼狽えそうになる自分を、必死に制御する。
「嘘。なんか、雰囲気がいつもと違うんだな~」
意味ありげに言う凛子の顔は、ファッション雑誌から抜け出したような完璧メイクだ。
「凛子、今日、習い事の日だっけ?」
凛子は、婚活の一環で、料理教室とヨガ教室に通っている。
そういう趣味だと言うと、婚活パーティーの自己紹介の時に、イメージが良いのだそうだ。
私も、料理教室に誘われたけれど、母に教われば良いと思って、それっきりになっている。
だけど、その後、料理教室にも行ってないし、家事は母に任せっきりだ。
このあたりも、修正すべき?と自己反省していると、
「何?相談事?」
と、凛子が尋ねた。
「うん・・・ちょっと」
「何よ~、やっぱり・・・決まった!???」
「えっ!」
私は、あわてて、しっ!と、指を立てる。
幸い、ロッカールームは空いていて、顔見知りも居ない。
私は、小さな声で、
「違うわよ。ちょっと相談に乗って貰いたいだけ」
「じゃ、お弁当、屋上で食べない?」
屋上は、普段は立ち入り禁止になっていて、課長がドアのカギを管理している。
でも、たまに、色々な『事情』で、使わせて欲しいという申し出がある。
上司と部下、他の人に聞かれたくない話しをしたい・・とか
女同士、フロアでは言えない事を話し合いたい・・・とか
ランチタイム、ランチバッグを持って、凛子と屋上へ上がった。
「ランチタイムに、屋上へ行きたいのですけれど」
というだけで、課長は無言でカギを渡してくれた。
「あ~気持ち良い!」
凛子は、大きく両腕をあげて背伸びをすると、ベンチに座った。
頬をなでる、秋の爽やかな風が、心地良い。
並んでお弁当を広げると、
「鈴音のお母さん、いつも手の込んだお弁当だよね。いいな~。うちは、共働きだし、冷凍食品か残り物の詰め合わせだよ」
と、凛子が私のお弁当を覗き込んで、羨ましそうに言った。
母は、いつも手の込んだお弁当を、私と父の為に作ってくれている。
料理は、かなりの腕前だと思う。
料理以外にも、掃除、洗濯・・・・どれも甘えっぱなしだけれど、母はどれもきちんとこなしすぎて、うかつに手を出しにくい雰囲気すらある。
子供の頃から、それが当たり前だったけれど、よその家に遊びに行くと、必ずしも、母のようにきちんと家事をする人ばかりでは無い事を知った。
スポーツジムに通っているし、おやつの習慣もないせいか、同世代の女性と比べると、スタイルも良いし随分若く見える。
家事の合間に、絵を描くことを趣味にしている。
私が、絵を描くことを好むのも、きっと母の遺伝。
無口な父とは、大きな喧嘩をする事も無く、かといって、睦まじい姿を子供に見せることもなく、淡々とした夫婦に見える。
私と修司も、結婚したら、そんな関係になるのだろうか?
母のように、完璧に家事をこなせるように、なれるだろうか?
『結婚』に焦りを覚えながらも、今はまだ、ぼんやりと、『結婚生活』というものを想像してみる事しかできない。
「うちは、専業主婦だし、母は料理が得意だから。それより、凛子、せっかく料理学校に行ってるんだから、自分で作れば?」
「朝は、メイクで忙しくて、それどころじゃないのよ。1分1秒、無駄に出来ないの!鈴音こそ、花嫁修業は進んでるの?」
「全然。花嫁修業どころか、結婚の話しも進んでないのよ。あ~あ。浮気でもしちゃおうかな」
「馬鹿な事、言わないの」
凛子は、私の言ってることは、『戯言』だと頭から思い込んでいるようだ。
絶対に言えないけれど、雅さんとの出来事を知ったら、どんな顔をするだろうかとか、ちらっと思ってしまう。
「・・・・・・・凛子は、浮気したこと・・・ある?」
「浮気??」
凛子は、マスカラのたっぷり乗ったまつげを、ぱちぱちとさせてから、
「ある・・・かな。」
「あるんだ・・・」
凛子はもてそうだから、そういう事もあったかもしれない。
「それで、どうしてそんな事をしたの?」
「いいなって思える人が、一人だけじゃなかったの。で、たまたま、どっちとも両思いが成立しちゃったって感じかな?それで、つい欲張ってしまって・・・」
「で?」
凛子が、ちらっと横目で私を見ると、
「真剣に悩んだわよ。幼稚園の時だったけど」
思わず、口の中のものを吹き出しそうになった。
「ちょっと、凛子」
凛子は、声を立てて笑った。
「本当に、幼稚園児なりに、真剣だったのよ。最後は、砂場で修羅場。三人とも大泣きしたわよ。」
つい、幼稚園児の凛子を想像してみて、つられるように笑ってしまった。
「今思うと、あの頃の純粋さが懐かしいわ~。」
凛子がそう言うと、説得力がある・・とは言えない。
私だって、いつからだろう・・・こんな風に、言葉を飲み込む事を覚えたのは・・・
「で、何?」
凛子の質問に、きょとんとしていると、
「何か、相談したい事があるんでしょ?」
と、たたみかけられた。
「うん、相談というか・・・・」
凛子を誘ってみたものの、迷いを告白するべきか否か、決心がつかない。
「結婚の話しが進まない事?」
「うん・・・まあ・・・」
「私も、婚活全然進まないよ~あ~あ、焦るよね。なんか、周囲からの圧がすごくない?結婚してないと、おかしいみたいな。でも、どうせ結婚するなら、絶対に、条件のいい男性にするって決めてるの。最後に勝利するのは、私よ!」
そう言うと、凛子は、ぐっと握りこぶしポーズをとった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・駄目だ。
やっぱり、『結婚』を人生のゴールだと思っている凛子に、同性愛の相談なんて出来ない。
それに、万が一でも、雅さんとの事が社内に広まったりしたら、会社に居られなくなる。
私も、そして雅さんも。
話しの落としどころを、『修司の話』にしようと思っていると、
「そうだ、修司君に、ちょっと、ヤキモチを妬かせてみるのはどう?誰かに言い寄られたとか・・」
と、凛子が提案してきた。
「ちょっとくらい、ヤキモチを妬いて欲しい気持ちはあるけど、嘘をつくのは、ちょっと。」
「やっぱりね、鈴音は不向きだよね、浮気とか、不倫とか。」
「ふ・・・不倫??」
思わぬ不倫疑惑を否定しようとした時に、LINEメッセージの着信音が鳴った。
修司から、『今夜、暇?』というメッセージだった。
私のスマホ画面を見る事無く、
「修司君?デート?」
と、凛子が尋ねた。
「うん・・・よくわかったね」
「気配で。鈴音は、わかりやすいから」
「私、わかりやすい?」
「いい意味で。だって、嘘つけないでしょ?」
凛子は、私を信頼してくれてるんだ・・・・・・・・・
だけど、その信頼が、今はずっしりと重たい。
それでも、言えない、雅さんとの事は。
ずっと、この気持ちを抱え込んだままでいるのが辛くても、「辛い」と言えない苦しさ。
私が抱え込むには、重たすぎる・・・でも、どこでこの思いを降ろせばいいのか、見当もつかない。
そんな事を考えながら、修司のLINEに返事を入力する。
『いいよ、何処に行く?』
『いつもの店』
今朝から、ちょっとテンションの高い私は、なんとなく、いつものお店では物足らない気がした。
『たまには、他のお店に行かない?』
『他って、何処?』
『たまには、ちょっとお洒落なところ』
『いい店ある?』
『調べてよ』
スタンプで『めんどくさい』という返信に、小さくため息をついてしまう。
「どうしたの?」
お茶を飲みながら、凛子が尋ねる。
「凛子~どこか、いいお店を教えてくれない?」
「デートで行くお店って事?ん~心当たりは、たいてい、予約しないと入れない店ばっかりよ」
そう言いながら、一応、スマホで検索してくれる。
女子会で使ったお店は、社内の人と遭遇する可能性があるから、行きづらい。
修司の事を、人の噂で、雅さんの耳に入るのが嫌・・・そんな事、自分勝手だとわかっているけれど。
結局、いつものお店で、修司と会うことになった。
チェーン展開している居酒屋。
メニューも豊富で、味はそこそこだし、お値段もそこそこ。
広くて、駅も近いし、クーポンも使えて、ささやかなお得感がある。
賑やかなのを通り越して、少しうるさい事もあるけれど、修司は生ビールを飲み干すと、満足そうにおかわりをオーダーしている。
良くも悪くも、修司は、味に煩くない。
結婚して、毎日料理を作る事を考えると、こういう人の方が楽だと思える。
味に煩くないだけでなく、ちょっと鈍いところがあるけれど、男の人は、そういう生き物なのかもしれない。
雅さんにも、凛子にも、「最近、ちょっと変わってきたね」と言われたのに、修司は、そんな私の変化に、全く気付く気配は、無い。
やっぱりね・・・・・・・・・・・
ちょっと期待していた分、軽い失望感を味わう。
それでも、私にとって『嬉しい出来事』を、話したくて仕方ない。
「ね、聞いて。今度、私のデザインした絵が、採用されるかもしれないの。腕時計の蓋に。」
「腕時計の蓋に、絵?」
修司には、何の話しなのか、意味がよくわからないようだった。
わかるように説明して、クオンのイラストを描いた話しをした。
「商品企画部で、宣伝も兼務してる、すごく仕事が出来る女性がいるの。蘇芳さんて言うんだけど、美人で、スタイル良くて、頭も良いのよ。その人から、頼まれたの。すごいでしょ。」
私は、嬉々として話した。ちょっと早口になるのも、気持ちが昂っている証拠だ。
「ふぅん。普通は、デザイナーとかがするんだろう?絵が、そんなに上手だったとは、知らなかったな。元美術部だっけ?」
「うん。本当は、美大に行きたかったんだけどな・・」
「美大出ても、就職先が困るだろう?絵で食べていけるのは、ごくわずかだろうし」
両親に何度も言われたのと、同じ言葉を、修司も口にする。
わかってる・・・・わかってるけど。
「採用されたら、本当に嬉しいんだけどな。」
私は、カシスオレンジを飲み干しながら、雅さんの事を思い出していた。
「私のアイディアを採用してくれた先輩、本当に、素敵な女性なのよ、蘇芳さんて。男性だけじゃなくて、女性からも憧れの存在なの」
「女子は、そういうの好きだな。『お姉様』みたいな」
修司は、笑いながら言う。
「修司も、憧れてる同性の先輩とか居なかった?職場には居ない?」
「そりゃ、学生時代、スポーツが得意な男子の先輩を、かっこいいとか思った事はあるけど。」
「見て、ドキドキとかした?」
「気持ち悪いこと言うなよ!」
修司が、顔をしかめる。
「女同士はまだ綺麗だけど、男同士は・・・・ちょっとな」
「女同士なら良いの?」
「そりゃ、男の夢だからな」
修司は、ちょっと、にやけた表情をした。
「夢って?」
なんだか、嫌な予感がしたけれど、一応、質問してみた。
「ほら、3人でって・・」
「ストップ!」
私が、手で止める。
聞きたく無い。
修司が、そういう願望がある・・・みたいな話しを、以前した時は、なんとなく聞き流せたけれど、今は違う。
修司が、雅さんに触れるのは絶対に嫌!。
そう思って、はっとした。
私は修司の恋人なのだから、雅さんが修司に触れるのが嫌だと思うのが、先じゃない?
そう思うと、心がひどく動揺するのがわかった。
それを隠すように、
「変な妄想しないで」
と、否定する。
「鈴が、先に、そんな話題をするからだろう?」
「そんな意味じゃ無いよ。素敵な女性がいるっていう話しをしただけで・・・」
と、スマホが着信を告げた。
雅さんからだ。
「ちょっとごめん」
と言って、席を立ち、店の外に出る。
「はい、蔵前です。」
電話に出るだけなのに、相手が雅さんだと思うと、胸がドキドキしてしまう。
「蘇芳です。ごめんなさいね、お取り込み中?」
「いえ、大丈夫です。」
「そう・・・時計のデザイン、蔵前さんの絵でもう一度、プレゼンをやることに決まったから、報告しておこうと思って」
「本当ですか?」
「折角、素敵なアイディアを出して貰って、絵まで描いて貰ったのだから、営業には頑張って貰うわ」
「はい!」
スマホを握る手に、力が入る。
「蘇芳さん、まだ会社ですか?」
「今、ミーティングが終わったところよ。もう少ししたら、帰れそう」
「そうですか。お疲れ様です。」
「退社した後に、電話してごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です!」
「じゃ、お疲れ様」
「お疲れ様です」
電話が切れた。
短い電話だったけれど、雅さんと電話で話せるだけで、こんなにも嬉しいなんて・・・・
もっと、雅さんの声を聞いていたい。。
背中から、店の中の喧噪が聞こえてくるのを、遠くに感じながら、私はスマホを握りしめて、暫く、立ち尽くしていた。
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