壱―出会いと王墓

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 夜――宮城内の東に位置する書庫にて。  人払いはされているが、王氏ほどの身分とあれば容易く入ることが可能であった。 「これは、これは。なんの御用でしょうか? 王氏」  灯りで揺れる人影に気づき、皇太子・朱 央晧が猫を被った状態で書物から視線をあげた。 「勉強熱心で何よりでございます。殿下」 「ええ。師父亡き今、科目によっては一人で学ばねばなりませんので」  楊武が見れば驚くであろう、愛想よく笑った央晧に王氏も貼り付けた笑みを浮かべていた。 「歴史に関しましては新たな師をお迎えになるとお聞きしましたが?」 「おや、耳が早いですね。市井(しせい)で有名な学者を試しに招くことになりました」 「ほう、市井から……。僭越ながら、立場上、臣も存じ上げている場合がありますので差し支えなければ名前をうかがっても?」  そうきたか。央晧は心の中で悪態をついた。 市井と言えば逃げられると考えていたが、やはり一筋縄ではいかなかった。  えーっと。  子供らしく覚え書きを探すふりをして名前を考える。読んでいた前代の系譜にある字と、とっさに思いついた孫師父にまつわる文字を組み合わせ、その名を読み上げた。 「李梓(りし)」 「聞かない名前ですな」  それはそうだろう。今考えたのだからな。  央晧は悪態を付きつつも笑顔は崩さない。たとえ背中に冷や汗が伝っていたとしても、だ。 「発掘調査で功績をあげたらしく、現地での実地も予定しているそうです! 本宮はほとんど宮城を出たことがないので、ぜひ実現してほしいですね」  央晧は王氏の顔を伺うことなく、自身の理想の講義形式を口早に述べた。実現するかしないかはこの際問題ではない。  これ以上深追いは勘弁してくれと祈る央晧に対して、王氏がどこまで信じたかは不明である。  王氏はたっぷりと蓄えられた白髭を数回撫でると、一瞬だけ顔を顰めた。 「殿下は相変わらず歴史がお好きなようで何より。それでは、勉学に邪魔になりますゆえ、老臣は去りましょう。夜更かしはほどほどに」  すぐに笑みを貼り付けた王氏は、踵を返して書庫を去った。  王氏の手燭の炎が大きく影を揺らす。  遠くなる足音に、央晧はやっと息を大きく吐き出せた。背もたれによりかかり、天井を仰いだ。 「……明日どうやってあいつに話そうか」  偽名を考えることは、いずれやらねばと思っていたが、まさかこんなあてずっぽうな形で名前を決めることになるとは想像していなかった。  宿敵亡き今、王氏が国史編纂及び太子太傅への兼官を視野に入れているのは明らかだった。  ――思っていたより、王氏が動き出すのが早い。  央晧は気を引き締めると、楊武の偽名を示す二字をあまり紙に書き出した。  “()()“  発掘調査の界隈は知名度を上げている新進気鋭の学者。その功績から皇太子の教育係の一人に選ばれる。  主に歴史に関連する科目を担当。都近くの遺跡であれば実地授業を行い、遠方の場合は出土物を取り寄せて行う変わった教え方が定評となり、後に皇帝から国史編纂の勅命を賜ることとなる。 「文字に書くだけであれば、こんなに簡単なのにな」  王氏と入れ替わりに入室した博文に、聞こえるか聞こえないかの小さな声でぽつりと呟くと、央晧はすぐさま再び筆をとった。  しばらくして書き終えた紙を三つ折りにし、控えていた博文へ渡した。 「上奏(じょうそう)しておいてくれますか?」 「……こちらは?」 「新しい太子中庶子(たいしちゅうしょし)の推薦です」  博文は目を見開き、手元から主に目を移した。 「李師父(しふ)を、なるべく早く正式に師父(しふ)としてお迎えしたいので」  にっこりと笑う央晧に、博文は何も言わず拱手(こうしゅ)し、すぐさま書庫を退出した。  夜であろうと、あの上奏文は今すぐにでも中書省(ちゅうしょしょう)にて審議され、明日の朝一番に皇帝に届くだろう。  中書省は行政の中心であり、陰謀の中心とも言われている。過去にも中書省が作り上げた偽りの上奏文で詔が発せられ、意図的に消された官人はいくらでもいた。  明日の昼には上奏文を早々に皇帝に上奏した旨を名乗り出る者が尋ねてくると思うと気が重い。  しかし、こちらもその出世欲を利用して楊武を早々に皇帝へ謁見ができる身分に仕立て上げるのだ。これぐらいは慣れている。  央晧は大きく息を吐きだすと、椅子に力なくもたれかかった。博文が戻ってくるまでの間、華美に装飾された天井を見ていた。  嘘から出た実。  今はまだその場しのぎのはったりでしかないが、李梓――もとい楊武の実績を積み上げていくのは、いずれ現実になる。
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