壱―出会いと王墓

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「お前、今日から()()と名乗れ」  部屋に来て早々、央晧が楊武に向かって言い放つ。  身分のある央晧は朝支度を終え、朝餉も食べ終えていたが、怪我人の楊武は遅めの朝食を迎えている最中であった。  遅いと言っても宮城に仕える人間としては少し遅いだけで、央晧が部屋を訪ねる時間がいささか早すぎただけである。 「本当はもう少ししっかり考える予定だったんだがな。昨日王氏が余に接触してきた」  もはや央晧専用となりつつある龍が彫られた椅子へ腰かけ、肘をつくと央晧は瞼を閉じた。 「王氏が、ですか?」  口に運ぶ手前の匙を食べずに腕を下ろした。 「ああ。もう師父(せんせい)の後任について噂が出回っているらしい」  央晧は器用に片目だけ開き、一文字に唇を結んだ。 「太子より知らせを受け、昨晩中に『李梓』殿の戸籍を作成いたしましたので、確認をお願いいたします」  央晧の合図に合わせて側近の鄭 博文が懐から三つ折り書面を取り出した。楊武は受け取ると、早速中身に目を通し始める。  戸籍表のひな型にそって書かれた内容は、昨日央晧が考えていた来歴が長々と羅列されていた。 「こ、これを一晩で……」  出身地から家族構成、学歴まで一から百まで嘘で固められた経歴に一通り目を通すと、楊武は自分の経歴として何度も心の中で反芻する。 「た、太子中庶子!?」  自身……と言えるのかわからないが、李梓が与えられた地位に驚くあまり、紙を顔に近づけ声を荒げた。 「当たり前だろう? 六品以下では困る」  太子中庶子とは、簡単に言えば皇太子の側近である。  央晧があてがわれている英慶宮には博文を筆頭に皇太子府の官人や宦官が仕えている。  皇太子府の長官は太子太傅――つまり孫師父がついていた役職であるが、現在は太子太傅が空席となっているため、第二席である王氏が筆頭にあたる。しかし、これらの官職は兼官が可能なため、中身が伴っていないことが多い。  故に、実質的な皇太子府の権限は、博文が長年担っている。  また、太子中庶子は九品(きゅうひん)と呼ばれる官人の位は、中の中にあたる従五品(じゅうごひん)である。  楊武がどうしてそこまで驚いているかと言うと、従五品から上位の一握りの官人しか、皇帝への謁見が許されないからだ。  普通に彼が科挙試験を受験したところで、よっぽどの成績を収めない限り、一番下位にあたる従九品(じゅうきゅうひん)から出世街道がはじまる。  つまり、最初から皇帝に謁見が許された上位の官品を与えられ、楊武は腰を抜かす一歩手前と言うわけだ。 「下手をすると武官の兄達より高い……」 「まあ、余の師父(しふ)となるのだからな」  けろりと言ってのける央晧に楊武はめまいがした。  兄弟たちが今日も汗水流して官位をあげている中、易々と皇帝への謁見が許される地位を与えられたことに心の中で謝罪した。 「後は……名前が、反応できるか心配ですね……」  気を取り直し、経歴を見直して官品以外の不安を口にする。 「お前ならできるだろ」  あからさまに感情のこもっていない声援に、楊武だけでなく部屋の隅に控えている博文と博麗も苦笑した。 「楊はともかく梓と武は発音が近いだろう」 「梓と武。……それって古代の発音のお話ですか?」 「さすが理解が早いな! 師父(せんせい)の弟子」  央晧は満面の笑みで答える。  先ほどの感情の乗っていない応援はどこにいったのか、と愚痴をこぼしそうになるのをこらえて、楊武は「はは……」と乾いた声が漏らした。  嘉で使用されている文字は、古代より変わらない。しかし、発音は時代によって変遷している。その発音の変遷は前代に作られた字典を引けばわかる。  それを一瞬でそれを判断し、相応の返答ができる楊武は、流石書庫を丸暗記しているだけはある。  博文は感銘と共に、調子のよい掛け合いに満足している央晧の姿を見て、内心感謝を述べていた。 「(ズゥ)(ウー)……似てると言えば似てますが、音階もあってませんし果たして似ていると言えるのか……」  ぼそりとつぶやき、完全に冷め切った粥を一口食べる楊武に、央晧は頬を膨らませた。 「余が直々に考えてやったのだぞ!」  央晧は椅子から立ち上がり、楊武の匙を持つ手を掴んだ。 「……それに梓を使ったのは発音だけで選んだわけではない」  楊武を真っ直ぐ見つめていた視線が逸らされた。  先ほどまでの無邪気な央晧の様子からは想像できない姿に、楊武は口を噤んだ。 「今、木版印刷と言う技術が少しずつ流通し始めているのだろう。師父(せんせい)から受けた最後の講義で教わった」 「……」 「梓はその木版印刷に使う木と聞いた」 「……はい。その通りです」  紙が発明されてから嘉国の文化は発展し、民の教育水準も大きく上がった。  そして昨今、手書きで書き写すのではなく、木彫りした文字を墨で刷り上げる技術が発明され、同じ内容の書が誤字なく大量に作成できるようになった。  文字を彫る版木を制作するのに時間がかかると言う課題もあるが、この発明は間違いなく文学の発展に貢献していた。 「お前の記憶自体が師父(せんせい)にとっては梓だと、とっさに思いついた」  それだけだ。央晧はぶっきらぼうに視線を逸らした。  央晧は央晧なりに考え、とっさにあの状況で字を選んだのだ。  予想外に配慮してつけられた名前に、楊武は何も言えなくなった。  央晧が師父を慕っていたのは十分伝わっていたが、自分を“師の頭脳“と評価をしたうえでつけられた偽名へ、喜びと畏敬、そして親しみを覚えた。 「いえ……拙こそ、無礼をお詫びいたします」  楊武は腕を掴まれていた小さい手を左手で包むと、央晧が顔を上げ、視線がぶつかりあった。 「拙の為に太子が名前を考えてくださっただけでも身に余る思いです。そのうえ、拙にまつわる字を選んでいただき、感謝と言う言葉では言い表せません。ありがとうございます、太子」  元々下がり気味の眉がさらに垂れ下がる。  楊武はへにゃりと擬音が似合う緩い笑みを浮かべた。  央晧は楊武の初めて見る心からの笑みに目を見開く。損得勘定のない感謝を一身に受けるむずがゆさに耐え切れず、視線を思い切り逸らした。 「わ、わかればいい」  まごまごと小さな声で央晧は答える。年相応の姿に楊武はまた頬を緩めた。 「で、早速だが、明日にでもお前が倒れていた遺跡の調査に行ってもらう」  央晧は楊武に包まれていた手をゆっくり引き寄せ、咳払いをする。  椅子に掛けなおすと目つきが変わり、皇太子の顔へと戻っていた。 「え、あ、明日ですか?」 「怪我もある、長居はしなくていい。お前が調査に行ったと言う履歴を残しておく」  両手をひじ置きにかけ、胸元で手を組むと、少しだけ前のめりになった。 「直接お前と王氏が関わることはまだないと思うが……。気をつけろよ」 「御意」  姿勢を正して拱手する楊武を一瞥し、央晧は博文を連れて部屋を出ていった。  楊武はぱたんと音を立てて閉じた扉をしばらく見つめてから、冷めた粥に手をつける。  博麗に感謝を述べると、楊武としての最後の朝餉を、いつもより時間をかけて食した。
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