壱―出会いと王墓

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 楊武の部屋から回廊を抜け、央晧は博文と共に私室に戻った。  戻ってからと言うもの、央晧は口を開くことなく書物を開いた机の前でぼんやりとしている。  昨日王氏と話した際に見ていた『史誌』に記された嘉王朝以前の系譜が無造作に開いている。  央晧が話していた通り、李梓は昨日急ぎで決めた偽名であるが、実は苗字はあらかじめ決まっていた。 「李、と言う苗字に、どのような意味合いがあったのでしょうか?」  博文は主の気持ちを汲んで尋ねる。優秀な臣下の心遣いに、央晧は視線を下げた。  古代の王朝に、(かん)と言う時代がある。  嘉王朝の以前より、寛の時代は「理想の国家」とされており、寛王朝のような安定した国家を嘉王朝も目指している。  歴代王朝の中でも一番長い天命を受けた大国を建国した一族こそ、李一族であった。  寛代以降、李という苗字は寛王朝の末裔以外にも、その功績に何かしら理由をつけてあやかろうとした人々が多く使用し始めた。  嘉王朝まで歴史が下ると一般的な苗字となっており、偽名に選ぶにはうってつけの苗字だった。  ただ、それだけではなかった。  もう一つ、央晧がこの字を選んだ理由があった。その理由を、博文に問われるまでは央晧は誰にも告げることなく背負っていくつもりだった。 「子と言う字が入っているだろう」 「はい」 「師父(せんせい)の名を忘れないためだ」  央晧はうつろな目で李家の系譜を撫でる。  子でも糸でも、一でもよかった。  幼い彼が、普段使うことのない字典を何度も何度も開き、師父の名を一部分でも残せるように字を探した。  李と言う字を見た時、自然とそれを受け入れた。  その瞬間、央晧は師父から何度も聞いたその名を彼に選ぼうと決心した。  ある時は歴史で、ある時は思想で、またある時は地理で。  李と名乗る一族がどれほどの功績を残していたか。師父の口から紡がれた話からでも十二分に伝わっていた。  そして、何度も心に決めていた。嘉を李一族に負けない王朝にしてみせる、と。  央晧が孫師父から最も聞いた名前であり、自らが強く憧憬を抱く名。  それほどの思い入れを込めて、楊武に偽名を贈っていた。 「武は師父(せんせい)の最後の弟子であり、余と兄弟弟“子”だ。師父(せんせい)と武、余を繋ぐのは“子”の字だ」  これはこじつけだがな。自嘲した央晧に博文は首を横に振った。 「名は体を表すと言います。偽名もしかりかと。李梓と言う名前は、立派に太子と楊武殿、そして孫師父の思いを表しております」 「……そうか」  声変わりのしていない、少年独特の高い声が広い室内にぽつんと消えた。  主の肩が震えていることに気づかないふりをし、朱 央晧が最も信頼する側近・鄭 博文は、静かに部屋の片隅に控えていた。
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