壱―出会いと王墓

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 時は()王朝。中興(ちゅうこう)の祖と名高い、七代皇帝・徳帝(とくてい)の御世である。  天命に従い、嘉王朝が建国されてから二百年ばかり過ぎた。  現皇帝は歴代でも指折りの治世を誇ったと記録されている通り、国政・外交共につつがなく執り行われている。  異民族からの大々的な侵略も無く、嘉国から侵略戦争を起こすわけでもない。むしろ他国とも交易が盛んに行われていた。  その国内外の穏やかさと比例し、徳帝の時代は文化の発展がめざましかった。  特に、紙の発明以後、宮中だけではなく市井でも書物が流行をなしていた。  徳帝の嫡子である朱 央晧も、書物を好む一人であった。  徳帝は二人の皇后の間に、二人の子を儲けた。  後宮の西側に宮を構える(びん)皇后との間に生まれた公主は、すでに成人を迎えている。  聡明で物静かだが、物事ははっきり言う性格のため、しばしば彼女に仕える宮女たちは頭を抱えていると言う。  その性格もあってか、いまだに馬付馬(ふば)――つまり婿選びには苦労していると後宮で噂されている。  そして(こう)皇后との間に生まれたのが、念願の男児であった。  生まれた時から皇太子の役目を背負った少年は、周囲の期待を一身に受け、文武両道兼ねそろえた理想の皇太子に成長した。  また、異母姉とは異なり物腰の柔らかいところも評判が高かった。  ――と、言うのが皇太子・朱 央晧に対する表向きの評価だ。  普段は皇太子の皮を被っているが、一部の心を許した臣下たちの前では年相応の少年である。  似たもの同士なのか、年の離れた姉とも関係性は決して悪くない。央晧がまだ幼く、後宮で寝食をしていた頃は、旻皇后の宮で遊ぶ二人をよく見かけた。  徳帝も実子の仲睦まじさにはしばしば歓心を受けていたと言う。  この後、若い貴妃との間に公主が生まれることになるが、朱 央晧は、徳帝にとって唯一の世継ぎにあたる男児であった。  そんな期待の跡取り、皇太子・朱 央晧と楊武の師・孫師父の関係は教師と生徒であった。  身分上、央晧は一般教養以上に学問を学ぶ必要があった。徳帝も懇意にしていた孫師父が、皇太子の一切を任される皇太子府(こうたいしふ)の長・太子太傅(たいしたいふ)に任命され、教育係の一人に選ばれた。  央晧は孫師父がうまく手綱を握っていたこともあり、勉学に関しては真面目に取り組んでいた。  特に興味を抱いていたのが、嘉国とその周辺諸国の文化であった。  城壁で囲まれている宮中だけでも幼い央晧にとっては迷子になるほど広い世界であった。  しかし、孫師父の紡ぐ世界は嘉国に留まらず、隣国にも及んだ。嘉国領の各地の文化だけでなく、周辺諸国の異なる文化の話となると、央晧の想像できる範疇を超えていた。  宮城を出たことが無い央晧にとって、まさに師父の紡ぐ言葉は魔法のようであった。  国の文化と歴史を学び、各地の民衆に興味を持ち、疑問を抱き、解決策を導こうとする。  その姿勢は幼いながらすでに為政者の風格を持ち合わせていた。  師父もまた、自身の話に目を輝かせて聞く幼子に皇帝としての片鱗を見出していた。  故に師父も央晧へ自分の知るすべてを教え、立派な皇太子、ひいては皇帝になってほしいと心から願っていた。  二人もまた、師弟関係と呼べる絆を持ち合わせていた。  孫師父は遊説で諸国を巡り、この国に腰を落ち着けた食客である。  思想や考え方もさることながら、師が自らの足で得た嘉国内外の見聞は書物では語れない知識と称賛され、いずれ必要になると皇帝自ら引き入れた。  食客として国に招かれると皇帝より屋敷を与えられた。孫師父と弟子たちは共に都のはずれに住まうようになった。  師父は信条として政治には関与しなかった。  徳帝に「欲しい冠位があれば授ける」と言われていたがこれを断り、代わりに科挙試験(かきょしけん)へ受験する下流貴族たちの学び舎を新しく設けた。  科挙試験は、官人として出世街道を歩む第一歩として大変重要な試験である。  下級貴族や平民も受験が出来るため、門戸はとても広い。しかし、宮中の書庫にあるすべての書物が暗記できなければ受からないとさえ言われている超難関試験でもあった。  勉学に励める環境のある家柄でなければ合格は難しいと言われ、その難しさから試験中に発狂して自害する受験者もいる。  ちなみに、上流貴族は家柄や世襲で出仕が可能のため、受験の必要がない。故に彼らは孫師父の提案に否定も肯定もしなかった。  この歴史ある難問試験を、ぽっと出の食客が新設した学び舎風情で合格できるわけもない。受験者も、貴族達も、孫師父の学舎に露ほどの期待もしていなかった。  しかし、結果として孫師父の学舎は、生徒の大半が合格した。  合格者はみな、基礎的な教養も持たない下級貴族の次男や三男坊であった。  合格発表と共に、学び舎は志願者が増え、瞬く間に孫師父は話題の人となった。  その成果もあり、数年後には太子太傅と呼ばれる皇太子の教育係の長官に任命され、信条とは別に師父は着実に徳帝の信頼を得ていた。  そして今から三年ほど前、諸々の功績をふまえた結果、師父は国史編纂の勅命を受けた。  央晧の教育係として、国史として確固たる地位を持つ歴史書をかみ砕き、面白おかしく語る程度はできても、幼い太子に対して細かい事件まで教えていたわけではない。そもそも孫師父の専門外である。  その師父が国史の委細をまとめた書物を作成するとなれば、まさに手探りで一から取り掛かることになる。  明らかに自身の範疇を超える皇帝からの命に、師父は頭を抱えた。そして、新しく分野の異なる弟子をとる運びとなった。  それが師父の最後の弟子である、楊武だった。    楊武と言う男は、自身の身分はないに等しいが、一族となると話は別であった。  楊一族と言えば、武官の間では震え上がる者も居る名家である。  楊武以外の兄弟も全員、武官として出仕しており、ひとたび辺境で戦になると必ず功績を残していた。  まさに泣く子も黙る軍事の名門である。  その功名は建国にも遡るらしいが、楊武自身は武人としての才能が全くなかった。  趣味と言えば書物を読むこと。  出世の願望も無ければ、兄たちから散々聞かされていた宮中のいざこざに嫌悪すら感じていた。  ”――自分は絶対に出仕はしない。“ 幼いながら、心に誓っていた。  成人を目前としてもなお、日がな一日書物を読むか、寝ているかの楊武に両親すら苦悶していた。  そんな矢先、祖父が宮中で師父の国史編纂を耳にした。  まさに楊武のためにあるような招集に祖父は師に直談判し、師父も二つ返事で弟子入りを取り付けた。  後日、師父に直接聞いた話であるが、師もまた、武官には不向きだが文官としては圧倒的な適正があると言う、楊家の四男坊の噂を宮中で耳にしていたそうだ。    そして楊武は家族や師父の期待通り、歴史家としての才能を開花した。  彼は宮中にある書庫の目録を把握しているだけでなく、その内容もほぼ完璧に理解していた。  これには師も兄弟子たちも驚きを隠せなかったが、本人は科挙試験への対策だったとへらへら笑っていた。  今年も科挙に受験をしなかったようだが、もし受験していたらほぼ合格していたに違いない。あの時ほど師父や兄弟子たちは、彼の野心の無さに感謝したことは無かったと言う。  ちなみに、楊武の家柄で言うと、本来は科挙試験を受けずとも官人になることは可能である。しかし、あえて試験を受けろと言われていたのは、ひとえに楊武のものぐさな性格を叩き直すためであった。  そんな楊武の意外な特技の甲斐もあって、書物から見る国史は二年も経たずしてまとめ上がった。  しかし、「それだけでは裏付けが確実ではない」と師は首をひねった。    嘉国で歴史を学ぶにあたって、もっとも参考にされるのは『太公史誌(たいこうしし)』と言う書物である。  『太公史誌』、通称『史誌(しし)』は、前王朝の時代に、中華と呼ばれるこの地域一帯の歴史を細かく記した、歴史書の最高峰と言われている書物だ。  科挙試験でも「史」と言う分野で出題されており、国の指定書のひとつである。  神代から作者の生きた御世に至るまでの王朝交代の顛末が描かれた「本紀(ほんぎ)」、名前の通り家系図や年表がまとめられた「(ひょう)」、嘉王朝でも使用されている暦や思想をまとめた「(しょ)」、そして王族や諸侯、個人の歴史を個別で記した「世家(せいか)」「列伝(れつでん)」の五つに分類されている。  しかし、孫師父は『史誌』からの引用、編纂終了後に「確かに『史誌』の完成度は言わずもがなであるが、勅命での国史となれば信用に欠ける」と口酸っぱく言っていた。  『史誌』の評価が高い理由の一つに、前代までに書かれた書物の引用がある。  散逸した書物を『史誌』の脚注からある程度再現が可能となっていた。  楊武たちも国史編纂にあたり、『史誌』の引用を書物ごとに分ける作業を早々に行った。  しかし、『史誌』はあくまで前王朝にできた書である。  それより前の王朝については引用された文献から想像されたにすぎない。師はその問題点を指摘していたのだ。  前王朝が始まる前から、すでにこの一帯は常に大国が存在しているのは認知されている。しかし、『史誌』はそれより更に古代にあたる、遥か昔、神々が大陸を統べていた頃から歴史として記していた。  つまり時代を遡れば遡るだけ、虚構と事実の境界線が曖昧なのだ。  更にもう一つの問題が、書物とは作者の何かしら意図があって制作されている、という点である。  先人の歴史家たちの研究でも、滅亡した王朝の評価を悪くすることで、前王朝が建国された正当性を誇張していると推測されていた。  つまり前王朝以前の記述については、国指定の書物であれど、改編されて記されている可能性がある。  その改変は、遥か昔の世界を空想のままに記している可能性から、滅亡王朝の真偽を問われるような逸話を捏造している可能性まで、多岐に渡る。  疑いはじめてしまうと、歴史書としてどこまで信用できるのかが不明瞭だった。  この問題点を無視して『史誌』と現存する書物で国史編纂を行うことはたやすいが、これは皇帝の命令で作る歴史書である。  『太公史誌』に込められた意図同様、この国史編纂は嘉王朝、ひいては徳帝の治世が如何に良き御世であったかを後世に伝える書物となる。  その為にも先人の受け売りとそれ以後の歴史を述べるだけでは足りない。  故に、更なる裏付けを求めて、近年は遺跡調査と『史誌』等の史書が語る歴史を照らし合わせる作業に取り掛かっていた。  その中で現在調査を行っていた場所が、楊武の逃げ込んだ王墓だった。  一部の副室に描かれた壁画や、盗掘を逃れた残置物から、作られた年代や被葬者の特定を行っている途中であった。  その日は帰宅後、国史編纂をしている師父らと、学舎で教示している弟子らが一堂に会し、晩餐を行っていた。  珍しく弟子が全員揃っていたその夜、彼らを炎が襲い……。 「……話が長い」
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