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「楊武様のおぐしは指通りが良いですね」
「そうですか? 結構ぱさぱさだと思いますが……」
米のとぎ汁で洗髪し、水気を拭いて櫛を通している博麗がうっとりとした声でつぶやいた。
少しばかり栄養不足ではあるが、体調の変化に左右されやすい手足の爪も折れていない。
髪も同様で、火事のせいで不揃いではあるものの、背中まである髪は櫛を通しただけで真っ直ぐに整った。本人は少し指通りが悪くなったと思っているようだが、そんなはずはない。
楊武自身は自分の外見に興味を示していないが、裕福な環境で暮らしていたため、従者たちによって最低限の身だしなみが整えられていた。
普段から自室に籠りきりのため、不健康そうに見えるが、そこは名門武家の従者の腕のみせどころと言うべきか。本人の知らないところで見た目や健康の管理はしっかりされていた。
「いえ、とても綺麗なおぐしですよ。太子の髪を結っていた頃を思い出します」
博麗は耳にかかる髪を後ろで束ね、結い終えると、紐の余分を切り落とした。
「博麗殿は……東宮様にお仕えして長いのでしょうか?」
「はい。太子が後宮にお住まいの頃はわたくしがお世話をさせていただいていました」
博麗は鋏と髪紐を仕舞い終え、顔を上げて言った。
「わたくしと博文は太子の乳兄弟なんです」
乳兄弟。
楊武は予想もしていなかった関係性に、言葉を反芻した。
身分の高い家に生まれた子は、育ての母である乳母の子供と実の兄弟よりも強い信頼関係を築き上げることもある。
博麗と博文は自身よりもおそらく年上で、太子は今年で十二になると聞いた気がする。
二人は、太子が生まれた時から主従関係なのだろう。そこまで考えて楊武ははっとした。
後宮に籍があるのに、此処数日、毎日顔をあわせているところを鑑みて、もしや自分の世話は太子から直々に命が下っているのではないか。
皇太子に命を拾われただけでも身分不相応だと思っていた楊武は、自らの現状を確認するために博麗へおそるおそる尋ねた。
「もしかして、ぼ……いえ、拙の看病は東宮様からのご命令、ですか?」
「はい。太子が太監がたにどのような理由を申されたか存じませんが、しばらく後宮からは休暇をいただいております」
朗らかに笑う博麗の姿に、楊武は顔が引きつった。
予想通りの重責に嫌な汗がじんわりとこめかみを湿らせる。たかが一士族の四男坊に使う権限ではないと楊武は肩身が狭いどころの問題ではなかった。
「せ、拙は、死んでもなお返しきれない恩情を、東宮様から賜ったということですね……」
死ぬまでただ働きか、はたまた御家取り潰しまで追い込まれるか。楊武にとって最悪の状況を想像していると、無遠慮に扉が開いた。
「お前に期待などしておらんわ」
幼さとは相いれない、抑揚のない声が反論した。この数日で聞きなれた声に、楊武は肩を跳ねさせた。
ぎこちない動きで戸口に顔を向けると、腕を組んで口をへの字に曲げた皇太子・朱 央晧と、その側近・鄭 博文が央晧の数歩後ろで静かに控えていた。
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