壱―出会いと王墓

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 皇太子・朱 央晧は絶賛、柳眉を顰めていた。  自身の師であった孫師父の弟子・楊武を謀略から救い出し、自宮の一角に匿うまではよかったが、如何せん楊武は師と共に死んだことになっている。  目の前に居る男は亡霊に等しい。今後、新たな師父として宮城を出入りする際、彼の一族や知人と遭遇する可能性は十分にあり得る。央晧はその懸念を払拭したかった。  つまり、どうすれば楊武を楊武と認識されずに済むか。央晧は幼いながらも懸命に思案していた。 「顔は……隈でも書けば見た目はそこまで気にならんか」  自分の股にすっぽりと収まったままの央晧に、楊武はされるがまま、目元を指の腹で擦られていた。 「少し前に武官で仮面をつけていた奴が居たが、仮面をつけることで目立つわけにもいかんな」  その右目の泣きぼくろは逆に消した方がいい。お前を認識するための符号にも見えるからな。  そう言うと央晧は楊武の悲痛の叫びを無視し、泣きぼくろを引っ掻いた。  生まれてこの方、皇族と顔も合わせたことがなかった楊武は、自身の常識からかけ離れた現状を受け止める許容は持ち合わせていなかった。  身じろぎ一つで太子の機嫌を損ねてしまうかもしれない。そうすれば最悪、首が跳ぶかもしれない。考えれば考えるほど、身体を動かすことができなかった。 「太子」  央晧の側近・鄭 博文が放心状態の楊武に助け船を出した。  皇太子が一民間人の足の間に座っている。それなりの教養を身に着けていればこの異常事態にどう反応すればよいのか躊躇うはずである。 「太子。あまり気安く臣下へお触れにならないよう、お心掛けください」  いつの間にか楊武の頬をこねくり回して遊ぶ央晧に、博文が喚起する。  そうだそうだ! やんごとなき人に触れられるこっちの身にもなってくれ! と楊武は心の中で央晧へ悪態をついた。 「ん? ああ、すまぬ」  頬から手を離さず、顔だけを博文へと向けた央晧に、小さくため息をついた博文が続けた。 「楊武殿は孫師父の弟子であり、太子とはまだ縁も微々たる間柄になります。あまり軽率に太子から触れられるのはいかがかと」  博文の言葉を理解した央晧は、楊武の膝元から退くと、ようやく寝台を降りた。 「……そうだな。お前たち姉弟以外とこんなに近くで話す機会もなかったので羽目を外した。すまない」  博文が寝台の前に置いた龍彫りの椅子に腰かける。  変声期を迎えていない幼子とは思えぬ央晧の、自分の立場を理解している姿に毎度のことではあるが、楊武は感服していた。  それと同時に、友人や家族と呼べる親しい間柄を安易に作ることができない彼に同情した。  そのため、央晧の謝罪に反応するのがやや遅くなり、慌てて寝台へ平伏する。 「面を上げよ。今更お前に皇族として扱われたいわけでない」  楊武が顔をあげると、いじらしい姿はそこになく、いたずらを思いついた子供のような表情をしていた。 「そういえばお前、余の兄弟子にあたるんだったな? なら兄と呼ぼうか? 余に兄は居らぬので呼び慣れんなぁ?」  ひじ置きに右手をつくと、愉快そうに目を細める。  楽しげな央晧とは反対に、肩を大きく震わせた楊武は数秒ほど膠着し、我に返ると口早に答えた。 「い、い、い、いえ! 拙は新参者ゆえ、拙が東宮様を兄とお呼びするべきかと!」  楊武は上げたはずの額をめり込むのではないかと思うほど、何度も寝台へ押し付けた。 「……お前、冗談が通じないな」 「へ?」 「あと東宮呼びもやめろ」  ほくそ笑んでいた口角が下がり、膝を組みなおすと央晧は続けて口を開いた。 「先ほどから、お前の今後について考えていたのだが、まずはその焦げている毛先を切れ」  楊武が顔を上げると、結い上げられた髪のうち、長さが足りない髪がまばらに楊武の頬を撫でた。 「そもそもお前は出仕しているわけでもないし、顔を知られているわけでもない。ならば髪が短ければ誰も楊武だとは気づか……」 「お、お待ちください! それは、つまり……髪を……切れと、言うことでしょうか?」  慌てふためく楊武へ「それを言わせるのか」と言う代わりに、央晧は感情のない視線を向けた。  真逆の二人の姿に、博文と博麗は視線を逸らすことしかできなかった。    ――身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に()く。あえて毀傷(きしょう)せざるは(こう)の始まりなり。  これは嘉以前の王朝から引き継がれている「()」と言う教えである。  自身の体に傷つけないようにすることは父母への孝行の第一歩である、と言った内容だ。  すなわち、自分の体に自ら傷つける行為は親不孝と考えられていた。  今、この場で楊武が央晧に求められていることもそれにあたる。  嘉国の国民は男女関係なく、生まれてから髪を切ることはない。髪も父母から授かった恩恵なので、切ることは不孝にあたるのだ。  それを、あえて央晧は求めている。  一見、整えているように見えていたが、毛先が縮れて上手く束ねられない不揃いな髪はどのような憶測を呼ぶかわからない。  それも死んだ孫師父の入れ替わりで選ばれた学士だ。如何に「一般的な文官」になりきれるかが、外見で最も優先すべき点だと央晧は考えていた。 「お前のちっぽけな不孝と、自らの命、どちらが大切か。わかっているだろう?」  眉間に皺を寄せ、楊武を見つめる視線が険しくなる。楊武も、自身が楊武であると悟られないための手段と頭では理解している。  しかし、既に自身は、事故とは言え父母から受けた身体に傷をつけてしまった。そのうえ、世間では親よりも先に死んだ不孝者である。  生きているだけまだ救われる部分はあるが、教えを破ることにやはり抵抗があった。 「……」 「博麗、こいつが腹を決めてからでいい。短い髪にあわせて毛先を揃えてくれ」  央晧はため息をついて立ち上がると、振り返ることなく扉へ手をかけた。 「先ほどの髻も見事であった」と博麗に添え、博文と共に回廊へと消えていった。  扉の閉じた音にあわせて、楊武の膝の上で握られていたこぶしが衣擦れの音を立てる。  楊武はいまだ、きつく瞼を閉じて己との葛藤に耐えていた。
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