星降る夜に凛と響く

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「……よし」  ユウが再び立ち上がる頃には、とっくに夕刻を過ぎていた。もっとも、彼に時の概念は必要ない。そうしたいときに床に就き、そうしたいときに目覚め、そうしたいときに食事をとる。食糧を得るためにときどき街へ向かうほかは、彼に俗世のことなど関係なかった。  彼が魔印の分析に夢中になっている間、リンは一寸たりとも椅子から動かなかった。その前にしゃがみ込んで、ユウはうっとりと彼女を見つめる。 「幸せだぁ……」  噛みしめるように言うと、リンが目だけを動かして彼を見下ろした。その顔に相変わらず感情は見当たらない。唐傘は握りしめたままだ。行動原理の不明なこの怪物にいつ攻撃されてもおかしくはないというのに、ユウは驚くほど余裕を保っていた。  ――しかし、彼は実のところ最初から分かっていたのだ。敵意さえ向けなければ幽屍は攻撃してこないと。もし間違っていれば死ぬだけ。少なくとも彼の中ではそれだけの単純な話だった。  彼の仮説はこうだ。幽屍の術者は彼女たちに命令を与え、意のままに操ることができる。ここまでは書物にもみられることだが、肝心なのはその命令の内容だ。ユウの考えでは、術者は幽屍に対し「己を脅かす者に死を」と命じた。最初に襲撃されたのが部隊でも要塞でもなく関所であるという歴史的事実がそれを裏づけていた。戦争で疲弊した世の中で高価な着物を着てひとり歩く少女に最初に嫌疑をかけるのは、間違いなく関所の番人だ。もしかしたらその前にももっと下劣な輩が彼女たちを襲おうとしたかもしれないが、そんな馬鹿な野郎どもは歴史の闇に葬られたに決まっている。  ひとたび戦闘が起こり、その中心にいる少女が軍に危険視されれば、あとは芋づるのように襲撃対象が増えていく。それでいて、無辜の民には被害が及ばない。術者が戦争を終わらせたいと願ったのであれば、どこまでも筋の通る話だ。  ひとつ術者が計算間違いをしたとすれば、人々があまりにも弱く、そして愚かだったことだろう。少女たちを撃破するために彼らが自分たちの国土をほとんど焼き払うことになるとまでは、術者も思っていなかったに違いない。結果として多くの民が軍の攻撃に巻き込まれて死んだ。  ともあれ、こうして落ち着きはらっているように見えるユウも、実のところはリンにわずかの敵意も感じさせないよう慎重に振る舞っている。と言っても実際は簡単な話で、要は普通の人間と同じように接すればいいだけのこと。たったそれだけが、戦時中の人間にはできなかったのだ。 「そんなおっかない戦鬼には見えないのにな、お前」  ユウはそう呟いて、リンの乱れた髪にそっと手を伸ばして優しく整える。絡まった砂がぱらぱらと床に落ちる。わずかに触れる肌は氷のように冷たく、彼女に血が通っていないことを証明している。近くで見ると、その頬にも砂がついているのが分かる。 「浄の印……はさすがにめんどくさいよなぁ」  いくら魔印の魅力に憑かれたユウとて、意固地に印しか使わないわけではない。彼の部屋の灯りが印で賄われているのは、たんに電気の通らない山奥に住んでいるからだ。研究の過程で大量に発見された無用の印は全て記録こそしてあれど、よほど画期的な利用法を思いつかない限りは使用しない。浄の印は有効範囲が狭いため、水のない場所で手を洗うには効果的だが、全身の汚れを落とすには不便だ。 「服、洗うから脱いで」  そういうわけで、リンには大人しく湯浴みをしてもらうことにした。しかしリンは微動だにしない。仕方なくユウは彼女の手をとり、立ち上がらせて浴場まで連れていった。  木組みの浴槽は空だった。しかしユウは「見てて」と笑い、帳面のとある箇所を開いて浴槽にかざす。すると帳面から赤と青の光が迸り、水音が響く。しばらくして浴槽から湯気が立ち昇り始めた。 「すごいなぁ……」  満面の笑みを浮かべるユウに、やはりリンは無反応だった。  魔印の真価はこのように複数の印を組み合わせることで発揮される。『湯の印』とユウか名付けたこの印は、魔印としては実用性も比較的高い技術だが、もちろん機械文明でも風呂を沸かす技術はとっくに確立されているので、これではまだ勝てない。  だが、仮にユウが機械文明より有用な印を発見しても、それを誰かに見せびらかそうとは思わないだろう。あくまで彼の興味は技術の進歩や他人からの承認ではなく研究そのものにあり、誰かに認めてもらいたいとすれば幽屍の術者くらいだった。  浴槽に十分な湯が溜まったのを確認してから、ユウは改めてリンに服を脱ぐよう促した。しかし案の定リンは動かず、仕方なくユウはほとんど解けている帯に手をかける。帯はあっさりと外れ――。 「おっと!」  着物の前が開いてリンの裸があらわになりかけたのを、ユウは急いで戻した。下にも簡素な服を着ているものと勝手に思っていた彼は、やはり現代の生まれだ。  身体を拭くための大きな布を慌てて持ってきてから、リンの後ろに回って着物を脱がし、改めて布をその身体に巻きつける。線の細いその体躯が戦場を縦横無尽に駆け回ったとは、やはり思えなかった。  唐傘は、それでもまだ離さなかった。 「それ、預かっておくよ」  ユウが手を差し出すが、リンは少し目を向けた程度で唐傘を渡してはくれない。これを無理にもぎ取ろうとすれば敵性と判定されるのは目に見えていたので、諦めてそのまま浴槽へ促した。  背中を押して階段を上らせると、リンは探るように爪先を湯につけ、それからゆっくりと肩まで浸かる。ここでようやく彼女は唐傘を浴槽の縁に置いた。  ユウは風呂桶を持ってきて湯を汲み、リンの頭から静かにかけ流す。二度、三度、四度。リンは嫌がることもなく、されるがままになっている。 「気持ちいいかい?」  答えるわけもないと思って投げかけた質問だったが、リンは。 「……ふふ…………」  初めて、ごくわずかではあるが、その顔に微笑みを浮かべた。  その反応にユウは「おお」と感嘆してから、また彼女の頭に湯をかける。今度は手を伸ばして、その髪を梳かしながら。  ちゃぽん、ちゃぽん、ちゃぽん。水音だけがしばらく響いた。
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