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リンを風呂に入れた後、ユウは彼女に自分の服を貸し、すでに日の沈んだ外へと連れ出した。服を貸したといっても、リンがそれを自主的に着ることはなかったので、ユウがたいへん失礼して上から下まで着せることになったのだが。
「見てごらん、綺麗だろう?」
満天の星空を見上げるリンの瞳は、やはり何も見ていないようだった。
何もただ二人で星を眺めに出てきたわけではない。ユウにはきちんと別の、本来の目的があった。
「さて、上手くいくといいけど……」
ユウの手には印を刻んだ紙切れ。リンの胸元を少し開け、幽屍の印をあらわにする。このためにわざわざ前開きの着物を貸したのだ。
湯の印と同じように、幽屍の印は幾重にも重ねられた印の集合からなる。あまりにも多くの印が重なっているがゆえに一見するとほとんど塗り潰された円のようにも思えるが、ユウは先刻の分析でこの印に含まれるいくつかの印を特定した。ある印でなければ塗り潰されない領域というものがあり、ユウはその卓越した観察眼でそれを見極めたのだった。
そして、今から行うのはその印の解除。このために星の光が必要なのである。幽屍の印を構成する印には理論上、死んだ身体を動かす機関系や思考を制御する精神系、暴走を防ぐための安全系などが含まれるはずなのだが、このうち精神系の一部が特定できた。これを消去することでリンにいくらか人間らしい思考を取り戻させ、少しでもまともな対話を試みようというのがユウのねらいだ。
――それに、着替えも一人でできないのでは彼が困る。
「痛くないからな……」
紙切れをそっと印に当てると、じゅうと焼け焦げるような音がする。幽屍は痛覚も切られていると分かってはいるが、あくまでユウは彼女を人間として扱った。
印から紙を離すと、いつの間にか目を閉じていたリンのまぶたがゆっくりと上がり、先ほどまでとは明らかに異なる光を湛えた瞳がユウをまっすぐに捉える。相変わらず表情は堅かったが、口がわずかに開き、心なしか驚いているようにも見えた。
「リン」
「…………リン」
抑揚のない声はしかし、ユウの呼びかけに確かに応えていた。
彼が解除したのは一言で言えば、判断力を鈍らせる印。精神に作用する印の中でも最も単純な部類だ。持続力を除けば酒でも飲ませたほうが早い程度の効果しかない。同系統の効果をもつ印がいくつも重ねられた結果として幽屍の短絡的な思考回路が完成しているのだが、弱いものをひとつ解除するだけでもそれなりに違いは出るようだった。
「そう、君の名前だ。僕がつけた。分かるかい?」
「…………リン」
分かっているのかいないのか、リンは授けられた名を無機質に繰り返す。だがユウはこれで満足したようだった。
「リン。これから僕は、君が主人を探す手伝いをするよ」
「…………」
ユウの仮説にはまだ続きがある。戦後も世界を彷徨っている幽屍は、自身を怪物に変えた術者を探している――そう彼は考えた。蹂躙すべき脅威も潰え規定の役割を終えた彼女たちは、主人のもとへ帰還することを命じられているのではないかと。
「…………帰らなければ」
そんな彼の仮説は、この一言で証明された。
ただ、この仮説に基づいて合理的に考えれば、致命的な誤算で世界を壊してしまった術者は絶望して逃走したか、最悪自ら死を選んだ可能性もある。もちろん、生きていてほしいというのがユウの個人的な願いではあるのだが。
「うん。帰ろう」
約束だ。そう言って彼は、リンの冷たい手を優しくとり、両手で包み込んだ。リンはただその握られた手を見つめていた。
当然、ユウの真の目的は幽屍の術者に会うことだ。古の技術を極限まで知り尽くした、きっと世界にたったひとりの識者。世界を救おうとしてうっかり滅ぼしてしまった、結果論的悪人。そんな人がまだ生きているのなら、話を聞いてみたい。未知の技をこの目で確かめ、そして自分で使いたい。魔印の真髄をこの手に収めたい。そういった下心を彼は否定できないし、するつもりもない。
――しかし、なぜだろうか。
「…………」
この星空のもとで佇む彼女を眺めていると、そんな下心を抜きにしても助けたいと思ってしまう。それがかつて世界を破滅に導いた無敵の戦闘少女だと分かっていても、今ユウの目の前にいるのはただ想い人を焦がれるだけのいたいけな少女だった。
「じゃあ明日も早いし、もう寝……ああそうか」
そんなことを考えていたからか、つい死体人形の彼女に睡眠など必要ないという当たり前の事実すら一瞬頭から抜け落ちる。ひとり笑ってから、ユウはリンに中へ入ろうと促す。
するとリンは突然唐傘を開き、その下に自身とユウを収めた。隣に立ち自分を見上げるその瞳に、ユウの心臓は高鳴る。
どれくらいそうして見つめ合っていただろう。ふいにリンの口が開き、ことばを発した。その声は小さくも確かに空気を震わせ、星降る夜に凛と響く。
「ユウ…………さま」
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