1章 不穏な噂 その1

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1章 不穏な噂 その1

ルゼリエール宮の一室に、煌びやかなドレスをまとったシャルロットが鎮座していた。  まだ幼さの残る少女の柔らかい頬には、指輪がいくつもつけられた指が添えられている。長い睫毛を揺らし、いささか眉間に皺を寄せ、じっくり肖像画を見ていた。 「うむむ、どうにも、美しさが足らんのう」 「シャルロット」  シャルロットの母である皇后ユリアは、隣から苛立ちを抑えた声で呼びかけた。 「最後だからと、はるばる遠くの大陸まで足を延ばし、美貌の者たちを集めたのです。今日こそ、必ず、この中から夫を決めるのですよ」 「分っておる。次じゃ!」  肖像画を持った侍従は後ろに下がり、別の肖像画を持つ侍従が前に出た。肖像画を持つ二十名程が縦一列に並んでいる。 「こちらは五百年以上続く王朝・ウォルシン国の第二王子です。生物学に精通しておられます」  侍従が告げる。王子は二十代半ばでオリーブの肌と銀の長い髪。目鼻立ちのはっきりとした、エキゾチックな風貌だった。 「美しいが、肌の色合いが、妾とは合わん気がするのう」  シャルロットの呟きを聞き、ユリアのこめかみに青筋が浮かぶ。 「もう説明はよい、肖像画を並べなさい」  ユリアが侍従たちに命じた。  シャルロットに家柄や教養を説明しても無駄だった。結局決め手は容姿なのだ。そしてユリアから見たら美しい者たちばかりなのに、シャルロットは難癖をつけ、ユリアを失望させる。  しかしそれも、今日で最後。 「シャルロット、近くでよく見て決めなさい」 「……」  シャルロットは母親譲りの美しい顔を顰め、ピンク色の小さな唇をすぼめた。細い指で腕木を掴み、ダイヤモンドが散りばめられたビロードの天蓋付きの椅子から立ち上がる。そして一段低い大理石の床で控えていた侍女をチョイチョイと手招きした。 「アンヌ、来るのじゃ」 「はい」  アンヌは優雅な動作で立ち上がり、イーゼルに乗せられた肖像画の前に移動して、シャルロットの隣に並んだ。シャルロットはアンヌの腕に自らの腕を絡みつける。  アンヌはシャルロットのお気に入りであり、たったひとりの侍女である。誰よりも一緒にいる時間が長く、シャルロットが兄姉よりも慕っている人物だった。  腕を組んだまま肖像画を一通り見て歩き、一番容姿の整った肖像画の前に戻る。 「しっくりせんのう。妾はアンヌやマルク以上でないと、納得出来んのじゃが」 「では夫をマルクにしたらどう? リュゼール家なら申し分ないわ。あなたのお守りも慣れているし」  ユリアがシャルロット専属の騎士の名を挙げながら、扇で顔を扇いだ。 「軍人を夫にするのは嫌じゃ」  シャルロットはきっぱりと否定した。  とはいえ、国内の貴族はもちろん、周辺国の王侯貴族の肖像画はあらかた見てしまったのも事実。この辺りで決めるしかないことは、シャルロットにも分っていた。 「妾はもっとこう、吟遊詩人の語る恋物語のような出会いを求めておったのじゃが」  シャルロットはしょんぼりと肩を落とした。 「肖像画とは、恋ができませんものね」 「そうじゃ。大事なところを飛ばして、相手を選んだらすぐに結婚というのが、そもそも納得できないのじゃ」  アンヌの言葉に大きく頷くシャルロットの後頭部に、ユリアは鋭い視線を投げかけた。気配を感じたシャルロットはビクリと肩を震わせて、項垂れながらアンヌの腕に頬を押し付けると、しぶしぶと肖像画に目を戻した。  大きな瞳を不安げに揺らしているシャルロットをしばし眺めていたアンヌは、考えるように視線を空に巡らせた。そしてなにか閃いたように瞳を煌めかせると、シャルロットの耳に唇を寄せた。 「シャルロット様、出会いから体験されてみます?」 「なんじゃ?」  シャルロットは小首を傾げて、少々高い位置にあるアンヌを見上げた。 「隣国、シュルーズメア王国はご存知ですわね」  アンヌは猫のように上がり気味の目を軽く細めて、花びらのように鮮やかで形のいい唇の端を持ち上げた。妖艶な笑みは、何か含みを感じさせる。 「うむ? 二年前、王が変わった国じゃの」  そう言ったシャルロットは、二年前の嵐の夜を思い出して、眉を顰めた。 「ええ。今上陛下は、若く賢く美丈夫なのだとか。王族の方にも、見目麗しい方がいらっしゃるそうですよ」  シャルロットは顔を輝かせた。 「シュルーズメアの王族か! こんなにも近くに、まだ肖像画を見ておらぬ、美しい者がいようとは!」  途端、座ったままのユリアは細い眉毛を寄せた。ヘッドドレスの羽が揺れる。 「アンヌ、あなたはまたシャルロットに、余計なことを吹き込みましたね?」  アンヌは笑みを浮かべて軽くドレスを広げた。ユリアは深く嘆息する。 「あなたに釣り合いません」 「どういう意味じゃ?」 「今は王でも、数年前まで庶民だったのです。それに、王位は簒奪したのだとか」  簒奪とは、地位を平和裏に譲り受けたのではなく、無理矢理奪ったということだ。 「悪い噂ばかり聞こえてくる王です。それに、生涯妃を迎えるつもりはないそうよ」 「そうか? まあ、噂なんぞ、あてにならぬ」  シャルロットは呟き、ニンマリと笑った。 「母上、数日お時間をいただきたい。これで最後じゃ、必ず相手を決めるゆえ」  ユリアは黙ったまま扇を持つ手を動かしている。 「本当に最後じゃ!」  シャルロットはユリアに駆け寄って足元に屈み、子犬のような目でユリアを見上げた。 「……」  ユリアはしばらく黙っていたが、諦めたように嘆息し、シャルロットの小さな顔に手を添えた。 「……分かりました、しばし考える時間を与えましょう。これが本当に最後ですからね」  結局ユリアは、シャルロットに甘かった。 「感謝じゃ、母上!」  シャルロットは飛び跳ねるように立ち上がって母に抱きつき、走ってアンヌの隣に戻った。 「失礼いたします、皇后陛下」  二人は一礼し、シャルロットはアンヌの手を握って跳ねるように部屋を出た。その後ろ姿に、やれやれとユリアは小さく首を振るのだった。
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