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藤色の嘘
床屋に行くと、毎回、緊張してしまう。子供のころのトラウマがあるからである。小学生の頃は家から50メートルも歩かない距離にあった床屋に通っていた。家族経営の小さなご近所の床屋さんで、スポーツ刈りしかしたことがなかった。そして、いつも、散髪中に居眠りをしてしまう。ハサミの音がリズムよく聞こえ、どんなに頑張ろうとしても寝てしまう。常連の常習犯のため、寝ながら髪を切ってくれる。終わると起こしてくれる。井戸端会議で母親が仕入れてくる情報「今日も良く寝ていたね」を聞かされるのが嫌だった。
大人になると、散髪中の居眠りはしなくなったが、店員からの形式的な質疑応答でも気が抜けない。お決まりの質問項目は覚えているのに、事前に回答を頭の中で用意している。目の前にある大きな鏡に写った自分の顔を見るのが恥ずかしく、考えごとばかりしている。
「今日はどれくらいにしますか?」最初のゴングはこのフレーズで始まる。「いつも通りで」「お任せコースで」と言ってみたいが、そんな勇気はない。
ケープを装着すると「苦しくないですか?」の軽いジャブが飛んできた。「あ、はい」の回答でやりすごした。しばらく、無会話タイムとなるので、妄想をはじめる。
「今日は鼻水でなさそうだから安心だ」と振り返った。花粉症がつらいときは、床屋へ行くタイミングに苦労していた。「マスクして散髪してもらえないか?」「ティッシュの鼻栓させてもらえないか?」「鼻水垂れ流しでいっちゃうか」など真剣に悩んでいたこともあった。数回、たらりと鼻水が垂れてしまったことを思い出した。
昔の床屋さんは「おしゃべりタイプ」と「職人無言タイプ」の2種類だったと思う。饒舌なおしゃべりタイプにあたると、一般的な日常会話だけでなく、プライベート情報まで引き出そうとされるときもあった。他のお客さんがいて回答に窮するときもあった。会話より、髪切りに集中してほしいと思うこともあった。
妄想タイムにひたっていると、「これくらいでどうですか?」と、少し重そうなストレートパンチが飛んでくる。ここも「あ、はい」と、ギリギリのかわしでやり過ごしている。このタイミングでの答えは3択しかない。
案1 OKです。
案2 まだ長いです。もっと切ってください。
案3 短すぎます。
いつも案1を選択しているが、案2のときでも、言い出すことができない。職人にクレームを言うような感覚で、切り出せないが、あとで後悔している。案3のときは「それ言ってどうなるの?」と思ってしまう。「それ、言う人はいるのだろうか?」と妄想してしまう。
髪切りの次は、洗髪ラウンドになる。切った髪を床に落としながら髪切り用のケープを外し、洗髪用のケープを取り付ける。ここでは「苦しくないですか?」のジャブは飛んでこないことが多い。「前へどうぞ」「お願いします」といった声で、前傾姿勢を取るよう指示出しされる。美容院に行ったことがないので、後方姿勢の洗髪はイメージできない。顔にタオルを乗せられるみたいだが「息はどうしているんだろう?」と妄想している。
手際よく、かつ、水が服に垂れないように、ギリギリのラインまでシャワーで泡を流している。ラウンドの最後に、いつもの右ストレートが飛んでくる。
「かゆいところはありますか?」
このパンチが最大のピンチになっている。いつもの「あ、はい」が使えない。答えは2択しかない。
案1 あります。ここです。(場所をどう表現するの?)
案2 ないです。
他人にシャンプーをしてもらうと、気持ちがいいときもある。上手な方は優しい手つきで、指の腹の部分を使って頭皮マッサージのような、心地よい時間を提供してくれる。そんなときは案1で「おかわりください」と言いたくなってしまうが、案2しか選択したことがない。下を向いたまま「大丈夫です」と弱々しく答えている。
この答えが洗髪ラウンドの終了となり、タオルで水を拭きとりながら、体を椅子へ戻される。難所を切り抜けたと油断していると「眼は大丈夫ですか?」の高速ジャブが飛んでくる。すかさず「あ、はい」で回避する。たまにシャンプーの泡や水が目に入ってしまうときもあるが、それでも「あ、はい」と答えている。
洗髪用ケープを取り外され、「顔そりします。後ろに倒します」と答えが必要のないジャブが飛び、リクライニングシートが後ろに倒れる。ここでの妄想ポイントは、手の位置で悩んでしまう。「体の横にだらりとしているか、股間の上に置くか、腕組みをするか、みんなどうしているんだろう?」と考えてしまう。相手が女性の時は特に気にしてしまう。自然体のままだと、両手が体の中心に置いてあるので、後ろに倒すと、股間を隠すような感じになってしまう。
手の位置よりも、顔そりラウンドの難所は「眼」である。両眼を開けたままにするのか、閉じるのか。顔そりでは相手の顔が接近してくる。眼と眼が合ってしまわないように、視線をそらすのだが、相手は色々な角度で攻めてくる。昔は開眼姿勢だったが、眼を閉じる技を会得してから、気が楽になった。でも、視力を停止すると、聴力や想像力がアップしてしまい、頭の中で相手の動作をイメージしてしまう。「手に持っている剃刀が誤ってしまったら、血だらけになってしまわないか」「もし、自分が動いてしまったら」と考え始めると体全身に力が入ってしまい、逆に、顔がビクッと動いてしまう。思考を止める戦いも、いつも苦労している。
顔そりが終わると、髪の乾燥と最後の微調整ラウンドになる。「何か整髪料をつけてますか?」のパンチは「いらないです」と逃げている。そもそも、何があるのかわからない。整髪料を付けないと料金が下がるお店もあったが、「早く試合を終了させたい」思いが強く、逃げ回ってしまう。
最後に仕上がりを確認されることもあるが、よく覚えていない。
この試合でいくつ嘘をついたのだろうか。この嘘の色は何色だろう?
床屋のグルグル回る看板は「赤・青・白」のサインポール。赤+青+白=藤色(薄い紫)になるので、私は『藤色の嘘』としたい。
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