最終章

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最終章

「とても信じられない話だけど、ミケがいなくなったのは事実だし」と母が言葉を区切る。それ以上は恐ろしくて口に出せないのだろう。 僕は、恐る恐る父に聞いた「バラバラにしたあれだけど、まさかあのまま捨てる訳にはいかないよね?」父は暫く考えていた、携帯を取り出し、いくつかの番号を検索する。「古い知り合いなんだが、こいつなら何とかしてくれるかも」 その、何とかが引っかかるけど、心のどこかで期待する自分もいた。その晩、父の書斎から声が聞き漏れていた。「すまない、久しぶりでこんな話を…」それ以上は聞いてはいけない気がして、居間に戻り、ソファーで寝た。流石に自分の部屋で寝る度胸はなかった。次の日も父は仕事を休み、新聞に目を通し、玄関に放置してある、あの黒いゴミ袋をチラチラ見ていた。 ピンポーンと呼び鈴が鳴る。父が緊張した面持ちで玄関に近付き、覗き窓を確認し開けた。そこには髪をきちんと分けて、紺のストライプのスーツを着た背の高い男が立っていた。一見するとサラリーマンだが、異様なのは、手に持っている、白木でできた、スーツケースだった。 見たことのない刻印が押してある。「久しぶりだな、黒木」歳は父より10才は若く見えた。「ああ、大学卒業以来だな」何年も会っていないということだろう。その黒木さんは「あれだな」とそれを指差した。ゾクリとした。それから「何故これがここにあるんだ?」首を傾げ、それから「まあ、来た物は仕方がないか」深く溜息を吐き、玄関口で、スーツケースを開こうとした彼に、母が「お茶でも如何ですか」と話しかけた。彼は「お心遣いは感謝致します。でもこれは一刻を争うことなので」淡々としたその口調に、逆にとんでもないことが起きたことが、母にも理解出来たのだろう。「すみません」と頭を下げた。父は「礼は弾むからな」と、「高く付くぞ」その時のニヤリとした、凄みのある笑顔を僕は忘れない。 スーツケースを開き、黒の革手袋をはめ、口元で何かを唱え、印を結んだ。流暢な手の動きだった。「これが終わったら、飲みに行こう」父の言葉に「そうだな、終わったらな」それから黒木さんは、スッと視線を動かし、階段の上を凝視した。「あそこ、ですね」僕等は凍り付いた。僕の部屋を指していたのだ。「それから、こういう事が起きると、盛り塩をされる人がいますが、決してなさらないように」僕と母を交互に見ながら「盛り塩は邪を払う力もありますが、逆に閉じ込めてしまうこともあります。そして、この家にはまだ邪が残っています」僕は泣きそうになった。それを察してか「心配しなくていいと思います、それにはさほど力は残っていませんから」母は力なく「はい」と返事をした。 「それでは」深々と頭を下げ、黒木さんは慎重にスーツケースを持ち、玄関を出た。黒いスポーツタイプのベンツが停まっていた。 「稼ぎはいいんだな、相変わらず」父は言った。そして、こう付け加えた「学生の頃からお偉いさんの仕事も引き受けてたからな」ジェスチャーで黒木さんは指を口に当てた。 思い出したように、彼はスーツの内ポケットから、お札のようなものを出した。良い香りがした。「魔が嫌う香が炊き込んである、これを部屋に置いておくといい」スッと僕の目の前に差し出した。「いいんですか」驚いて聞くと「これも礼の内に入っているから」少し笑い父を見た。僕等三人が頭を下げる中、車は静かに走り出した。母も僕も、黒木さんの事については何も父に聞かなかった。それだけ、信頼できる気がしたからだ。その数日後、仕事から帰ってきた父が緊張した面持ちで、僕と母を居間に呼んだ。 「いいか、これから話すことはとても大切なことだから、静かに聞いて欲しい」 僕は生唾を飲み込んだ。 「黒木が死んだ」始めはよく理解できなかった。「どうして」母が引きつった表情で聞いた。 「車が崖から転落したらしい」父の話では「仕事の昼休みに、昼飯をいつもの定食屋で食べていた時に、ニュースを見るともなしに見ていたら、黒木という字が目に入った。流れる事故現場、ぐしゃぐしゃになった車が遠回しで映された。その時だよ、あれが一瞬映ったんだ」「何が?」僕の問いに「バラバラになった白木のスーツケースだよ」僕達は互いに顔を見合わせた。誰の顔にも恐怖が見てとれた。僕は慌てて二階に上がった。お札を確認する。ホッとした。何も変わらずにそこにあった。けど、次の瞬間、バリッと嫌な音がした。信じられないが、目の前で、お札が上からバリバリと音をたてて裂けていく。 「うわー」大声で悲鳴を上げた。父と母が慌てて階段を上がってくる。僕はペタリと座り込み、半分に裂け落ちたお札を指差していた。その時、「バーン」と玄関の方から凄まじい音がした。次に、カツカツと何かが階段を上る音がした、父は手に金属バットを握っていた。階段を上り切ったそれは、僕の部屋の前で立っていた。「ぎゃー」母が悲鳴を上げた。僕が恐ろしかったのは、それが紺のストライプのスーツを着ていたことだった。黒土と赤土が入り混じった色は、肌色に近く、驚いたことに、その輪郭は黒木さんに酷似していた。「うおー」父は金属バットを振り上げながらそいつに向かって行った。階段を転がる音がした。「芳枝、貴志を頼んだ」父が叫んだ。慌てて僕は立ち上がり、夢中で階段に向かった。その時か細い声で「黒木、頼む」と聞こえた。視線が何かを捉えた、部屋の隅に掛けてある小さな鏡に黒木さんが映っていた。動きが止まる、僕と目が合うと、頷き、部屋中に響き渡る声で「御(おん)」と。 次の瞬間部屋の窓ガラスが飛び散り、風が吹いた。どの位だったのだろう、口をパクパクする母に頷いて、階段の下を見た。 何もなかった、拍子抜けした。父の死体と、バラバラになった人形が転がっているのを想像していたからだ。開け放たれた玄関だけが、今のは現実だったことを証明していた。 警察に電話をして、強盗に入られたと嘘をつき、父が揉み合い、階段から落ちたと説明した。警察も、ねじ切れられた玄関のノブを見て事件性があると判断し、辺りを捜索してくれた。 けれど、父の姿はどこにも見当たらず、一月が過ぎようとしていた。母は暫くは家から出なかったが、健気にも、僕に弁当を作り、学校に送り出してくれた。先生や友達も気を使い、話しかけてくれた。咲は黙って手を握り、泣いてくれた。ある日ポツリと母が言った。「父さんの葬式どうしようかしらね」 僕はどきりとしたけど、それを受け止めていた。それから何日かして、警察官が家を訪ねてきた。彼が言うには、父の靴が両方とも見つかった。場所は黒木さんが落ちた道の崖のほんの数メートル先で、道端に綺麗に揃えられていたらしい。 それから数年が経ち、僕が通勤電車に揺られていると、耳元で「貴志」と声がした、驚いて振り向くが、知り合いはいない。反対側の駅に視線を走らせると、そこに父に良く似た、後ろ姿が見えた。慌てて、次の駅で降り、反対側の駅まで走るが、父の姿はなかった。
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