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 物々しい祭壇と、荒々しく炎が躍る護摩。  掲げられた五芒星に向かって、陰陽師の親子が熱心に祈祷を捧げていた。  傍らには仕立ての良い背広を着た紳士が、ずっしりと重量感のある鞄を抱えて、更には眉間に深い皺を刻みその様子を静観している。  大政奉還から20年、日本には徐々に西洋文化が広がりを見せている。とは言え、庶民の殆どは未だ江戸時代と変わらぬ暮らしをしている。こうして西洋の衣服を身に纏い、贅沢な暮らしをしているのはほんの一部の者だけである。  今神殿の中にいる背広の男は、政府関係者であり手元の鞄の中には、世に出せない機密文書が入っている。今やすっかり名ばかりの陰陽師と化した榊家は、朔夜の母方の祖父が政府関係者だったこともあり、こうした文書の恰好の隠し場所となっているのだ。  神殿の外からその様子を眺めていた朔夜(さくや)は、軽蔑の眼差しを向けた。 「祈祷で望み通りになるなら、世の中に不幸な人なんていないわ。建前の祈祷ならしない方がましなのに!くだらない」  吐き捨てて投げやりに歩きながら神殿裏の神木の林へと向かった。  空気が他より数度低い。  時折頬をかすめる風は、木々をさわさわと揺らし同時に届く葉擦れの音が昨夜の心を落ち着かせた。  樹齢800年と言われる神木の中でも最も古い楠の根本の洞に身を落ち着かせると、現世と隔離されたような気分になり、朔夜の最も気に入りの場所でもあった。 「やっぱりここにいたな」  不意にかけられた声に顔を上げると、さっきまで神殿で父と共に祈祷を捧げていた兄の耕史が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。 「お義兄様(にいさま)、祈祷は終わったの?」 「うん。まぁね」 「そっか」 「僕も隣行っていい?」 「うん。いいよ」  そう言って朔夜が少し横にずれると、狩衣姿の耕史(こうし)は、口元に笑みを浮かべ身を屈めて洞に潜り込み、朔夜の隣に腰を下ろした。 「あの紳士が抱えていた鞄の中身はお金?それとも書類?」  俯いたままそう言った朔夜に、兄は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。 「朔夜は嫌か?」  すぐに返事ができなかった。  迷ったのではない。  これを生業にした金のお陰でで朔夜はこれまで、空腹を感じることもなければ、着るものに困ることもない。何一つ不自由のない環境は、この生業があってこそだ。  朔夜は自分がそう言った金で育てられたことを恥じていたのだ。  耕史とは兄妹と言っても血は繋がってない。  実母は朔夜を産んだ後、産後の肥立ちが思わしくなく、間も無くして他界した。その頃の榊家は貧しかった。陰陽師など、今の世に不要なのだろう。特に明治に入ってからは汎神論的な思考は自重すべきとの流れが強くなった。  母を医者に見せる金がないがために、母は死んだのだと父は言った。そして、父が再婚相手に選んだのは、政治家を父に持つ、今の義母だった。明治初期に流行したコレラで夫をなくした義母は息子の耕史を連れて、榊家へと嫁いだ。  空前の灯火だった榊家は、義母との再婚によってあっという間に立派な社殿が建った。耕史十歳、朔夜六歳のことだった。  幼かった朔夜は最初はただ、母や兄ができたことを無邪気に喜んだが、成長すると共に、なぜ父と義母が結婚したのか。なぜ、急に立派な神殿が建ったのか。なぜ、政治絡みの者達の出入りが激しいのか。その理由を知るのにそう時間はかからなかった。  大政奉還がなされ、元号が江戸から明治に変わったのは今から二十年前のこと。朔夜が生まれるほんの四年前のことで、朔夜は今年十六になる。志をもって世を変えた攘夷志士たちが政治の中枢をになってはいるが、そこに群がる輩が皆、健全とはかぎらない。朔夜はそんな裏の世界を間近に見てきて嫌悪していた。  俯いた朔夜の頭に耕史の手が優しく乗せられた。 「僕は陰陽師の血も才能もないのに、男だからお義父様の後を継ぐ。力のない僕の祈祷は一体どんな意味を持つんだろうな。朔夜は陰陽師の才能がある。けど、絶対に人に知られてはいけないよ」  視界の端に慈愛に溢れた義兄の笑みが映り、朔夜はぎゅっと膝を抱えた。  祈祷などは形ばかりで、実際は表に出せない金や文書を預かっているのだ。耕史がそれを継ぐことなど、これっぽっちも望んでいないことを、朔夜は知っている。  それでも義兄が両親に従うのは、朔夜を守る為だということも。  朔夜には陰陽師としての力があった。それを知ったのは五年前。朔夜と耕史が、この神木の森で遊んでいた時の事だ。耕史は、朔夜に力の事を誰にも言ってはならないと言った。自分と朔夜、二人だけの秘密だと。その時は、義兄(あに)との秘密が嬉しくて頷いた朔夜であったが、今は耕史が何故そう言ったのかもよくわかる。  朔夜の力を政治に利用させない為だった。  耕史が自らが盾となり、朔夜を守ろうとしていることを朔夜は痛いくらいわかっていた。わかるからこそ、辛いのだ。 「明日からは女学校だな」  耕史の言葉で、朔夜の心は重く沈んだ。 「ねぇ、お義兄様は修義館で学んだのでしょう?」 「あぁ、そうだよ」 「私も修義館に行きたい・・・」 「お前が?修義館に?バカ言うな、脩儀館は男子の行く学校だぞ」 「わかってる。それでも、華族女学校なんてまっぴらごめんよ。お裁縫に料理?花嫁修業?みんなバカみたいに着飾って、貴方の家の資産は如何程かしら?なんて会話、考えただけで耳から吐きそうだわ。私はお義兄様と同じように修義館へ行って、学問や武術を身につけたいの。馬にも乗りたいわ。そして自分の足で立って生きていける人になるわ。だからね、嫁ぐための華族女学校なんて意味がないの。だけどきっと・・・、私も誰かの願いを叶えるための駒にすぎないのね」  違う、そんなわけない。そう言ってやりたいのに、耕史は妹にかける言葉がすぐには見つからず、眉間のシワを深くした。  妹はいづれ祖父により政略結婚の道具にされるはずだ。耕史は自分の不甲斐なさに、唇を噛んだ。  明日から通う華族女学校も恐らく卒業することなく嫁ぐことになるだろう。  大抵の生徒がそうであり、卒業に至るものは半分にも満たないかもしれない。  朔夜が耕史の行った修義館に行きたがっているのはわかっているが、修義館は男子校である。女の朔夜が入学できるわけがなかった。  大政奉還から二十年余りが過ぎていたが、明治になってからも戊辰戦争、西南戦争などの内戦が続き、今や軍備の強化に余念がない。他国ともいつ戦争になってもおかしくないのだ。そんな中、国は政治と戦に特化した人材養成校として修義館を設立したのだ。つまり結局のところ、修義館も政府の駒にすぎない。 「お前は賢い。修義館を受けたらきっと主席で入れるだろうな」 「お義兄様、本当にそう思う?」 「あぁ、心からそう思うさ」  小さく何度も頷きながらも、朔夜は自嘲気味に笑った。  この世界で何一つ抗う術を持たない自分の非力さが恨めしかった。 「なぁ朔夜、修義館に行ったら戦へ行かなきゃならないかもしれないぞ?兄としては可愛い妹を戦地へ送るわけにはいかないなぁ」  お道化たように言う兄に、朔夜はコトリと頭を擡げて身を預けた。 「そうね・・・それでも・・・」  朔夜は一旦言葉を飲み込んだ。義兄を犠牲にして生きていくよりまし。そう言いかけた口を噤んだ。 「知らない殿方に嫁ぐよりずっといいわ。書物で読んだの。侍が髷を絶ち、西洋の服を着る様になったのは明治に入ってからだって。それから世の中は随分変わってきたって書いてあったけど、私の中では何も変わらないわ。この国にはまだまだ沢山の飢えた人がいる。西洋の服を着て珈琲を飲んでいるのは一部の人だけだわ」 「朔夜、今の日本はね、いつどこと戦争が始まってもおかしくない状況だ。その為に軍を強くしている。出入りしている政治家たちが話していたよ。僕は朔夜が戦に巻き込まれてしまうのは嫌だよ」 「私が行かなくても、将来結婚する旦那様は行くことになるかもしれないわ。そう考えれば何も変わらないわ」 「そうだね。そうかもしれない・・・。さてと、そろそろ行こう」 「私は、もう少しここにいる」 「そっか」  耕史は洞を出て大きく伸びをすると、小さな笑みを残し去っていった。朔夜は視線で義兄を見送ると、朔夜は持ってきていた本を開いた。  神殿の蔵には大量の書物が収められており、その殆どが政治家が持ち込む表に出せない文書や裏金であったが、先祖から受け継いだ呪術に関する本もそれなりにあった。  こっそり忍び込んでは時折そうした本を持ち出して読むのが朔夜は何より楽しかった。  陰陽師になるつもりは毛頭ないが、朔夜にはその力がある。  本を開いている間は、華族女学校のことも、出入りする政治家たちの事も忘れられた。  今はもっぱら式神の召喚をこっそり練習しているところだ。  懐に忍ばせていた早咲きのカンザクラの花を取り出すと、姿勢を正した。右手で刀印を結び口元に軽く当てると、目を伏せ真言(マントラ)を唱える。  そうしてゆっくりと目を開けてから、ふぅっとカンザクラに息を吹きかけた。  カンザクラの花は朔夜の手からふわりと舞い上がると、まるで意志を持ったかのようにくるくると宙を舞い、珠玉の如き光を放つとやがてその姿は七つ程の小さな男の子へと変わった。 「え?うそ。もしかして成功?やったっ!できたわ!」  嬉しさのあまり思わず立ち上がった朔夜は、洞の天井に頭をしこたま打ちつけた。 「うぅっ・・・・」  あまりの激痛に頭を抱えて蹲る朔夜に小さな手が添えられた。ゆっくりと顔を上げると、不思議そうに小首を傾げる男の子の顔が間近にあった。 「あっ、大丈夫、大丈夫。初めて成功したから嬉しくてつい・・・」  朔夜は勢いよく身体を起こすと、まじまじと男の子を見入った。  少し癖のある髪。白い肌。幼いが整った顔立ちをしていた。琥珀色の大きな瞳がまっすぐ朔夜を見ている。 「あっ、そうだ。君に名を与えないと!えっと、カンザクラの花から作った式神だから君の名は寒桜(かんおう)がいいわ!いい?寒桜よ」  寒桜はにこりと微笑むと、片膝をつき朔夜に向かってちょこんと頭を下げた。 「朔夜様、ありがとうございます」  十にも満たない小さな寒桜が、まるで大人のように挨拶する様がなんとも微笑ましく朔夜はくすくすと笑った。 「あ、そうだ。お父様たちに式神を作ったことが知れたら大変。いいこと、寒桜。普段は私が呼ぶまで姿を見せてはだめだからね。これは大切なことよ」  朔夜が言うと、寒桜はコクリと頷きまるで煙のように姿を消した。 「すごいわ・・・、そういうものだとは知っていたけど、本当に式神って自由なのね・・・」  消えてしまった寒桜に関心しながらも、朔夜は洞を飛び出し浮足立った様子で神木の林の中を駆けだした。式神を召喚できたことが嬉しくて、耕史に一刻も早く伝えたかったのだ。  神殿の脇を駆け抜け、母屋に駆け込んだ朔夜を呼び止めたのは義母だった。 「朔夜さん!」  ぎくりとして立ち止まる朔夜に、義母は大きなため息をついた。 「またそんな風に走り回ったりして!もっと淑女らしくしなくてはとあれほど言っているのに!明日からは華族女学校へ行くのですよ。支度はできてますか?」 「はい・・・お義母様」  俯き加減で返事をした朔夜の手を取ると、義母は朔夜を自室に招き入れ座らせた。 「ところで朔夜さんに、良い知らせがあるのですよ。なんでも今年の入学生の中から清国の皇太子の妃を選抜するそうなの!私はきっと朔夜さんが選ばれると思うの。貴方は器量もいいし、きっと使者の目にもとまるでしょうから。ですからね、これからはくれぐれも淑女らしく!先ほどのように走り回るなどもっての他です!」  嬉しそうに話す義母とは逆に、朔夜の心は重く沈むばかりである。  華族女学校に行くことすら気が進まないというのに、そのうえ清国に嫁ぐなど考えるだけでどうかしてしまいそうだった。 「あの、お義母様、私はまだ嫁ぐことなんて考えられません。それに清国の皇子だなんて・・・。妻が何人もいると聞きますし、私はそのような処へは行きたくありません。私は嫁ぐよりももっと色んなことを学びたいのです。それに陰陽師なら私にも・・・・」 「お黙りなさい!」  朔夜の言葉を義母が鬼の形相でぴしゃりと遮った。 「まだそんなことを言っているの?いい?女性にとっての幸せは嫁ぐことだと、何度も教えたでしょう?清国の妃なんて、これ以上ない嫁ぎ先でしょう?」  義母の言うこれ以上ない嫁ぎ先とは、娘が清国の妃となれば政治に利用できるからに他ならない。 「でも、言葉を知らないわ」 「なら、学びなさい。そうだわ。学びたいと言うなら、清国の言葉を学べばいいわ!そうすれば、貴方が選ばれる可能性はもっと高くなるわね」  既に選ばれたかの如く、嬉しそうな義母を前にこれ以上何の言葉も出なかった。かわりに絶望が、押し寄せた。義母が決して悪い人ではないことを朔夜はよくわかっている。義母にしてみれば、心底嫁ぐことが幸せと考えており、なんの悪気もないのだろう。だからこそ、絶望するのだ。 「まだ少し支度が残っていますので・・・」  やっとの思いでそれだけ言って逃げる様に義母の前から立ち去ると、再び外へと飛び出した。  とはいえ、先程まで寒桜を作り出せたことではしゃいでいた気持ちはすっかりどこかに消え失せ、今は明日からの華族女学校のことがただただ重く、朔夜の心へ圧し掛かっている。  足は自然と神木の林へと向かい、両の目からは涙が零れた。  義母のことだ。清へ嫁がせたいのならそれなりの根回しもしているに違いない。  女学校には他の娘たちもいるとはいえ、義母は祖父の力を存分に使うだろう。朔夜が選ばれることは、火を見るよりも明らかだった。  林を吹き抜ける風が、サワサワと葉音を奏でる。この林は朔夜がまだほんの子供だったころから何も変わっていないのに、自分だけが望まぬ方向にどんどん押し込められるようで哀しかった。 「朔夜様」  不意に名を呼ばれ見ると、傍らにいたのは寒桜だった。 「こっちにきて・・・・」  小さな手が朔夜の手をとり、歩き出した。寒桜に引かれるがままに朔夜は歩くと、着いた先はあの楠の洞だった。 「あれは・・・・」  朔夜は目をみはった。  洞の中が淡く光っている。  寒桜は光を放つ洞を指さして言った。 「あの中は、あるはずだったもう一つの世界へ繋がっているよ。どうする?行ってみる?」 「あるはずだったもう一つの世界?」  寒桜の言っている意味がいまいちわからずいると、寒桜が自らの胸に手を当てた。 「朔夜様のここ、今痛いでしょ。おいらは朔夜様の式神だからわかるんだ」  朔夜は膝をつき、ぎゅっと寒桜を抱きしめ泣いた。  すると寒桜が朔夜の耳元で、囁く様に言うのだ。 「ねぇ、朔夜様。知ってる?こうして過ごす日々は、いくつもの選択でできているんだ。それが(ことわり)だよ。それは時に、時代の流れを造り、国をも変えていく。だけど、その選択をしなかったら___。そんな世界がこの世界と並行して無数にあるんだ。あの祠は今、その中のひとつと繋がっているんだよ。朔夜様はこのまま女学校へも清国へ行きたくないんだろ?だったら、別の選択をした世界へ行ってみるのもいいんじゃない?おいらが連れて行ってあげる」  朔夜は涙を手の甲で拭うと、寒桜から身体を離した。 「無数の選択?別の選択をした世界?それは一体、誰のどんな選択なの?」 「そんなことはおいらにだってわからないよ。だってそんな選択も世界も無数にあるんだから」  寒桜の言っていることが、全て理解できたわけではなかった。  それでも、もしもそんな世界が本当にあるのなら・・・。  耕史が自分の犠牲にならない世界。  見知らぬ国へ嫁がなくても良い世界。  別の選択の世界へ行ったからと言って、思い通りになるかどうかはわからない。それでも、賭けてみたかった。 「お義兄様にこれ以上負担をかけたくないの。それに、清国へも行きたくない。寒桜、連れってって」  気づけば朔夜はそう言っていた。 「あいさ」  そう言って寒桜は朔夜の手を取ると、洞に近づいた。  洞の中へ入る直前、朔夜は止まり一度だけ振り返った。  お義兄様、どうかご自分の道を歩んでください。お父様、お義母様、お元気で。  心の中でそう告げると、朔夜は寒桜と共に洞の光に包まれた。   「朔夜!朔夜!」  名を呼ばれて目を開けた朔夜の視界に映ったのは、耕史だった。 「あぁ、良かった!なかなか目を覚まさないから心配したんだぞ。うん、熱もないようだ。もう、お転婆も大概にしておくれよ」  朔夜の額に手を当てて安堵の表情を浮かべる耕史を見て、朔夜はきょとんと辺りを見回した。 「あ・・・れ?寒桜は?」 「寒桜?誰だい?それは」  辺りを見回すも寒桜の姿はない。  確か寒桜と共に、光る洞の中に入ったはずである。 「お義兄様?」 「朔夜っ、まさか頭とか打ったんじゃっ!」  大袈裟なまでに心配する耕史は、確かに朔夜の知る義兄である。  もしかして、寒桜にからかわれた?そう思いながらも「大丈夫よ」と、立ち上がった。 「部屋に居ないから探しに来たら、倒れてるから心配したんだぞ。全くこんなんで明日からの修義館は大丈夫か?」 「えっ?」  朔夜は耳を疑った。義兄は確かに今修義館と言った・・・気がした。 「あ、あの、お義兄様今、修義館って・・・」 「あぁ、なんだやっぱり行くのが嫌になったのか?」 「そっそうじゃないわ。私、修義館に行けるの?」  耕史は左手を右の肘に添え、右手を口元に当てて難しい顔をしている。 「さくや・・・やっぱり、お前頭打ったんじゃ・・・それとも熱が?」  そう言って朔夜の額に手を伸ばそうとする耕史の腕の下をするりと抜けると、「私は大丈夫。どこも打ってないし、熱もないから」そう言って、ぴょんと跳ねて見せた。 「ならいいが・・・、お前がどうしても修義館へ行きたいと言うから、僕もお義父様 も苦労したんだぞ」 「私がっ!?修義館へ行けるのっ?」  効き間違いではない耕史の言葉に朔夜も驚いたが、それ以上に耕史は驚いている。いや、驚きを通り越してぎょっとして朔夜を見ている。 「とにかくだ。制服は部屋にかけておいたから。それから、何度も言うようだが僕が修義館へ呪をかけておいた。修義館の中ではお前の姿は男に見えるはずだ。だが、それはあくまでも”見える”ということだけだ。実際に触れる感覚まではごまかせないぞ。あそこは寄宿舎での生活だ。日々の生活にはくれぐれも気を付ける様に!」 「は・・・はい」  朔夜がそう返事をすると、耕史は何度も首を傾げながら行ってしまった。  何が何だか訳が分からないまま、朔夜は自分の部屋へと走った。そして壁にかけられた制服を見て息を飲んだ。  そこには、西洋風の制服がかけられていた。もちろん男性用である。見まごうことなき修義館の学ランであった。傍らには学帽か添えられている。 「嘘みたい・・・。じゃぁここは本当に、さっきまでとは違う世界なの」  学帽を手に取り、うっとりとしていると不意に部屋の戸が開いた。 「朔夜さんっ!」  その声に、思わず姿勢が伸びて朔夜は帽子を落としてしまった。義母であった。  絶対に叱られるっ!そう思って硬く目を閉じたとき、朔夜の身体をふわりと良い香りが包み込んだ。 「え?」   朔夜は義母に抱きしめられていたのだ。 「朔夜さんが修義館だなんて、本当に心配しかないわ。もしも女子であることが知れたら大変なことになると言うのに・・・」  そう言って義母は涙ぐんでいるのである。 「あの・・・お義母様・・・?」  朔夜の知っている義母は、決してこんなことをする人ではなかった。朔夜は戸惑い、一方的に抱きしめられたままどうしていいかわからずに、ただこけしの様に突っ立っていた。  そこへ呆れ顔の父と義兄がやって来た。 「いい加減にしなさい。家族で決めたことじゃないか」  そう言って父が泣きじゃくる義母を、朔夜から無理に剥がした。 「だって、男ばかりのところに娘を行かせるのですよ!あなたは心配じゃないんですかっ!」  そう言って、父の胸をポカポカと叩く義母を見て朔夜は何度も目を瞬かせた。  まるで別人である。  呆然とするばかりの朔夜に父は「朔夜、今日は早く寝なさい」と告げると、そのまま義母を抱える様にして部屋を出ていった。 「まぁ、仕方ないよ。お母様は最後までお前を心配して反対だったんだ。あのくらいは許してやれ」  そう言って耕史は、朔夜の頭にぽんっと手を乗せた。  もちろん、怒ってなどいない。ただ、朔夜の知ってる義母とあまりに違いすぎて戸惑っていたのだ。 「朔夜?にやにやしてどうした?」  耕史にそう言われ、朔夜は初めて自分の顔が緩んでいることに気が付いた。朔夜を心配して涙を流す義母の姿が嬉しかった、自分がそう思っていることに初めて気が付いた。 「うん、お義母様が優しくて・・・つい・・・」  そう言って笑みを零すと、「変な奴」クスリと笑って耕史も部屋を出ていったのである。  その夜、布団の中に入っても朔夜はなかなか寝付くことができなかった。  一見何も変わらないように見えるこの世界は、なにもかもが変わっていた。何よりも、修義館へ行けるのだ。  布団の中から、いつまでも壁にかけられた制服を見てはにやつく朔夜であった。
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