佳人の肖像

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「失礼します」  ノックと同時に声を掛けると、「おう」とぱらぱらと幾つか返事があった。 「小張さん、います?」  と声を掛ければ、奥の書架の向こうから「こっち!」と白い手がひらひら動いた。長峰は、乱雑を通り越して芸術の域にまで達した資料や文献のグランドキャニオンを慎重に避けつつ、部屋の奥へ進む。  そして辿り着いた一角には、白衣を着た長身の女性が一人。窓を背に、資料棚の中身と睨めっこしている。長峰は光源を確認すると、手元のカメラを素早く設定する。そして構えながら、改めて「小張さん」と呼んだ。  どうした? と彼女が振り向いた瞬間。    カシャ 「なに、いきなり」  シャッター音に彼女は軽く驚いた。小張永子、博士課程の一年生で、件のポートレイトの被写体だった。  長峰はカメラを掲げると、軽く舌を出して応える。 「いえ、フィルムが中途半端に余っていたので、せっかくならって」 「ああ、そう… それ、最近の流行?」  まさに柳眉を逆立てる、とまではいかないが、かなり機嫌を損ねた美女に長峰は屈託なく笑って見せた。 「やっぱりそういうことでしたか、これ」  先ほど焼き付けたプリントを差し出すと、永子は「ああ」と手に取った。 「巡検のフィルムに混じってたんです。珍しいな、と思って」 「…不意打ちだったんだ」  自分のポートレイトに視線を落とし、彼女はやはり苦々しく呟いた。  永子はこの研究科で、いや学部全体でも有名な才媛だった。けっこうなお嬢様だという話だが(大学院にまで進むとなれば、良家の子女か苦学生かほぼ二択だ)それ以上に、秀でた頭脳と容姿と、性格で主に。  人形のような貌に反して、勝ち気、というより苛烈な気性で、根強い男社会のこの業界でも異彩を放っている。竹を割ったような性格はむしろ女性に好かれるらしく、部活(たしか弓道部だ)にはファンクラブがあるとかないとか。学会の懇親パーティーで尻を触った某有名教授に、上段回し蹴りをかましたという噂もある。きっと事実だろう。  長峰は極力、軽く「よく撮れてますよ」と言ってみた。 「でも写真、嫌いだって言ってませんでした?」 「嫌いだ」  きっぱりと言い捨てて、彼女は写真を白衣のポケットに突っ込んだ。  研究室のカメラマンとしても働く長峰でも、彼女を被写体にしたことがほとんどない。学会や講演会等、イベントの記念撮影であっても、彼女はほとんど写真に写ろうとしない。以前、理由を聞いたら「この姿は気に入らない」と返答があって、周囲共々凍り付いた記憶もある。 「撮ったのは日向先生ですか?」 「そう。一枚余ってるからって、突然」  そこでどうして一緒に写ろうにならないかな、と。彼女はため息と共に吐き出して、資料棚から乱暴にファイルを引き出した。  助手の日向は数年前、この大学にしては珍しく外部から着任した。若くして本業の研究で実績があるのは勿論、端正なインテリ然とした風貌なのに、フィールドワークも軽々とこなす意外性。それでも物腰は柔らかで、会話も機知に富んでいる。まあなんというか、非の打ち所がない人だ。あまりに完璧すぎて、いっそ胡散臭いくらいに。  そして、永子とは恋仲であるらしい。  …らしい、というのは皆がそう思っているが、一向にその告知がないからだ。いや大々的に宣言する必要はないだろうが、狭いコミュニティだ。どうやってもその手のことはバレる。教官と学生ではあるがそれぞれ成人で、別に不都合はなさそうなものだが、何故かオフィシャルになる気配がなかった。  とはいえ、さすがに永子の修士課程修了を機に入籍するのではないか、と周囲は思っていたらしいが、結局そうはなっていない。  何故ならないのか、長峰にも、誰にもよく解らない。  ひょっとしたら、永子自身にも解らないのではないだろうか。   それでも、もう、  じゃあ、失礼しました、と簡単に告げて。  長峰はほとんど逃げるように院生室をあとにした。
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