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コンパートメントの宝石
ヴァレンチノは革製のドクターズバッグを網棚にあげ、ネクタイをゆるめた。右手だけ手袋を脱ぎ、煙草に火をつけた。狭いコンパートメントはすぐに煙草の薫りで満たされる。
ローマを振り出しにフィレンツェまで来た。ミラノからはオリエント急行へ乗り換え終点のコンスタンチノープルまでゆくのだ。
すでに深夜といっていい時間だ。郊外をゆく列車から外をながめると、わずかばかり散らばる光は、星のように見えた。二等車のコンパートメントの小さなあかりに照らされるヴァレンチノの青白い顔が、窓ガラスに映る。額と肩にかかる黒髪は闇に沈み、同色の瞳は木の虚(うろ)のようだ。
おのれを見つめ、深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「こちら、よろしいですかな」
ヴァレンティノが振り返ると、赤ら顔で背の低い男性がコンパートメントのドアを半分ほど開けて声をかけて来た。
「……どうぞ」
返事をしてから二口目を吸った。
コートを羽織った壮年の男性は、ヴァレンチノの向かい側に座ると帽子をとった。赤みのある巻き毛ーー頭頂部は、いささかさびしい。
「煙草、お好きですか」
問われてヴァレンチノはうなずくと、煙を吐き出した。
皮肉をこめた笑顔を浮かべ、わざとらしい咳をされてもヴァレンチノは吸い続けた。
「食事がわりなので」
「そうですか。夕飯を食べそこねましたか。細いですな。腰回りなどわたしの半分くらいだ。お若くても食事を抜くのは体によろしくないですよ」
勝手な解釈とひかえめな説教を聞き流し、ヴァレンチノは長い足を組んだ。
「いい季節になりましたな。夏のバカンスの騒々しが去り、降誕祭の休暇までは、まだ間があってひと息つける季節」
窓辺に寄りかかり、ヴァレンチノは外を眺めながら男の話を聞いていた。車窓からの明かりが、並行する川面にちらちらと光る。
「わたしに何かご用でも?」
ふっ……と細く煙を吐くヴァレンチノを、向かいから上目づかいで男は見ている。
「旅行客もまばらで、空いているコンパートメントなんていくらもあるのに、貴方はわざわざここへ乗り込んでらした」
男は、指を何度か組んだりほどいたりしていたが、降参とでもいうように、ぱっと両手を開いた。
「実は妻と喧嘩をしましてね。何か気のきいた贈り物を調達したくて。ここ数日、あなたが商っているのを街でみかけていましたから」
煙草を挟んだ二本の指を形のよい額にあて、ははっとヴァレンチノは小さく笑った。
「こんな時間にわざわざ? もう少しましな嘘をつけばよろしいのに。不器用なお方だ。さしずめ同業者か偵察をたのまれた探偵といったところですか? いやはや余所者には厳しい」
男性はそれまでのわざとらしい笑顔を消すと、上着のふところへ手を入れ、取り出した手帳をヴァレンチノへ見せた。
「失礼。警察のかたでしたか」
「ローマ警察のバローニだ。荷物を見せてもらいましょうか」
数秒の間、沈黙の押し問答があった。さっきまでの愛想笑いは身をひそめ、バローニは口角をさげた。交渉や譲歩に応じる気配は皆無だ。
ヴァレンチノは煙草を踏み消し、立ち上がった。
「何を疑われているか分かりませんが。たいしたものなど、ありませんよ」
ほら、とヴァレンチノは網棚からおろした鞄の金具を外した。
「骨董品(アンティーク)といえば聞こえはいいが、古色蒼然のガラクタと模造品ばかり」
ヴァレンチノは自嘲ぎみに、ビロード張りの小箱を取り上げて、バローニの眼前にさしだした。
バローニは箱から距離を取るように、背筋を伸ばして背もたれに体を押し付けた。
ヴァレンチノが蓋を開けると、大粒の赤い石が光った。
「ルビーか」
「ざんねん、ガーネット」
指輪の金の台座に付けられた赤い宝石は、ルビーより価値の劣るガーネットだ。
バローニは背中を背もたれに貼り付かせたまま、目線でヴァレンチノに命じ、次々と箱を開けさせた。
「こちらは水晶と色ガラスの首飾り。一見サファイアみたいでしょう? でも偽物。本物のサファイアの色はもっと深みがある。だいいち、硬さが段違。すぐに砕けてまがいものとばれる」
模造の真珠、金メッキの首飾り。素人目にも質の良し悪しがわかるだろう。バローニは眉間のしわを深くして、カメオや象牙細工が小箱から取り出されるのを見ている。
ヴァレンチノがひととおり披露し終わると、バローニはため息をついて背中を丸めた。
「たしかにガラクタばかりだ」
バローニは汗の浮かんだ顔を両手でおおい、再び深く息をした。
「まったくね」
ヴァレンチノは二本目の煙草をくわえた。
「こんな二束三文の品物ばかり抱えて回ったのが旧家だけだったようだな?」
顔をあげてバローニはヴァレンチノに尋ねた。
「処分に困っているものがあったなら、引き取りたいと思いましてね。ご覧のとおり、上物は在庫切れです。世紀も変わって、物入りな時代になりましたから、何かしら手放して構わないものがありはしないかと」
手袋をした指に煙草を挟み解説するヴァレンチノに、バローニがしかめ面をした。
「探し物はありましたか?」
ふん、と鼻を鳴らしバローニは足を投げ出し、深く腰かけた。
「そんなに汗をかいたり、体をこわばらせるようなものですか?」
バローニは、ぐっと唇を引き結び視線をそらした。
「さる場所から盗み出されたマリア像を探している」
「さようですか」
ヴァレンチノはまた外へと視線を向けて煙草をふかした。
「宝石でできた小さな像、だそうだ」
「わたしが訪問した屋敷から盗んだと?」
「そうは言っておらん……」
ヴァレンチノが顎をあげて煙を吐く。紫煙はコンパートメントに薄い雲のように漂う。
「聖遺物だ。持っている者の願いをかなえるとか、どんな病も治すだとか」
「なおさら、わたしとは無縁ですね。見てのとおり、しがない行商です。そうですね、そのマリア像のことをわたしに教えてくださいませんか?」
ヴァレンチノはバローニへ、かすかにほほえんで見せた。
「わたしは欧州から小アジアまで渡り歩いていますから。もしかしたら見つけられるかも知れません。ものの分からぬ異教徒が私蔵している可能性もあります。詳しく教えてくださいますか? 見つけたなら、ご連絡をさしあげましょう」
バローニは組んだ指のうえに顎をのせ、ヴァレンティノの白い顔を一瞥した。
「大きさは、どれくらいなのですか」
ヴァレンティノの更なる問いかけに、バローニの喉の奥から声が絞り出された。
「いや、どれくらいの大きさかは知らん。小さいと聞いたが、それが指輪の箱に収まるくらいなのか、あるいは人形(ビスクドール)くらいの大きさなのか」
バローニが両手を広げたり狭めたりしてみせた。
「盗まれたのは百年近く前だと言っていたし」
ふむ、とヴァレンチノは煙草を消して顔のまえで五対の指の腹を合わせた。
「聖遺物ねえ……人魚の涙、一角獣の角、オリハルコン、はては伝説の聖杯。仲間内での噂は絶えませんが。もしかしたらわたしが知る、紅玉の貴婦人なのかも。像は、もとは人だったとか、そんな噂を聞いたことがあります。まあ、箔をつけるための作り話でしょうが」
ヴァレンチノは唇の端を引き上げ、薄く笑った。
「なんとも言えん。聞いた話だと、体が宝石に変わる奇病にかかった娘の遺骸で、父親が教会へ納めたとか」
「では、かなりの大きさでは? それこそわたしの鞄になど入りきらない」
バローニは首を横にふった。
「宝石に変わるときに、体が縮んで小さくなったらしい」
「まるで御伽話だ。果ては、見ると目がつぶれるとか魂を吸いとられるとか言い出すのでしょう?」
バローニは、不意に背中を伸ばしてヴァレンチノを見た。
「そうだ……おまえが訪ねた屋敷の主人たちは、のきなみ倒れて病院へ運ばれた。今も意識が戻らないと……!」
バローニはやにわに立ち上がり、ふところへ手を入れたかと思うと、拳銃を引き出した。ヴァレンティノに銃口を向け、バローニは詰め寄った。
「鞄の底を見せてもらおうか」
「やれやれ、わたしの下着もあらためるんですか。酔狂なことですね」
「黙れ、やましくないのなら鞄を逆さにしてみせろ」
バローニは、ヴァレンティノの指から煙草をもぎ取り床に投げつけると、靴底でぎりりと踏みつけた。
「短気なお方だ」
鞄からは、すでにビロードの箱はすべて出されていた。ヴァレンティノはさらに鞄の中のものを出し始めた。数着の着替えや下着、リンネル、洗面用具、ノートに本、筆記用具……。
「それで終いか」
ヴァレンチノはバローニを見据えたまま、鞄の奥底から五十センチほどの箱を手袋をしたほうの手で引き出した。緑色のビロードに包まれた箱を目にして、バローニの喉が大きく上下する。
ヴァレンチノはバローニに箱を差し出した。
「ご覧になりますか?」
バローニの銃がわずかに下を向く。
「探すよう、依頼されたものかもしれませんよ」
ほら、とヴァレンチノはバローニの鼻先で箱の蓋をゆっくりと持ちあげた。
薄暗いコンパートメントの中、顎を引きバローニを見つめるヴァレンチノの白目が妖しく光る。
「や、やめろ!」
言われるより先に、ヴァレンチノは蓋を取り去った。バローニは悲鳴をあげた。拳銃を投げ出し、両手で顔を覆いうずくまった。
ヴァレンチノの高笑いが、わずかのあいだ響いた。
「ただの空き箱ですが?」
ヴァレンチノは拳銃を拾い上げ、引き下げた窓から投げ捨てた。
「お、おまえ!」
自分より頭一つ大きいヴァレンチノの胸ぐらに、バローニは掴みかかった。
「あんたはわたしの父と同じ目をしている、姉を教会に売りつけた父と」
「なんだと!」
血走ったバローニの目がヴァレンチノを睨みつけた。
「博打で借金が返せなくなったんだろう? だから命懸けの危ない依頼を受けた」
ヴァレンチノは胸元のバローニの手首を掴んだ。
「依頼主は、あいつらだろう? 緋色の法衣の連中……」
「だまれ!」
「盗難がおおっぴらに出来ないのは、マリア像が異教徒の女だったから」
ヴァレンチノは愉快そうに笑った。
突然、列車が大きく揺れた。バローニはヴァレンチノの襟を掴んだまま、床へと転倒した。
うめきながら体を起こし、振り返ったバローニは言葉をつまらせた。
窓を背にしたヴァレンチノの胸元が淡く光っていた。
「おまえ、それは……」
くぐもった笑い声がヴァレンチノの唇からもれた。
「お探しのものは、こちらですか?」
言うなりヴァレンチノはシャツを大きく開いた。
ヴァレンチノの薄い胸板に、わずかな双丘があった。
「お、女だったのか!?」
それよりもバローニの視線はヴァレンチノの胸の中央に注がれた。
そこには煌めく若い娘の顔があった。トパーズの髪が一筋一筋が刻まれ、顔は水晶かダイヤモンド。すっとした鼻筋と伏せた長い睫毛。頬はわずかに薔薇色に染まり、何よりその唇が紅い。
「ご挨拶を、紅玉の貴婦人へ」
ヴァレンチノが昂然として声をあげ、バローニの腕を取った。
「ほら、あなたの願いが叶います。もう苦しむことは何もない」
ヴァレンチノはふるえるバローニを引き寄せる。
「ば、ばけもの!」
「失敬な。わたしの姉ですよ」
ヴァレンチノは誇らしげに微笑むと、バローニを一気に抱き寄せた。
バローニの悲鳴は、車輪の軋む音にかき消された。
大きく開けられた窓と、意識を失ったバローニを見つけるのは、じき巡回に来る乗務員だろう。
ヴァレンチノは、新芽が伸び始めた線路脇の麦畑にたたずんでいた。
列車から飛び降りたときに、左の手袋が脱げ、透明な指先が泥に汚れていた。ヴァレンチノは胸のシャツを合わせると、貴婦人は姿を隠した。
「まいったな、帽子とステッキを忘れた」
胸ポケットから煙草を出してくわえる。
ヴァレンチノの体が受け付けるのは、香りのみ。
ーーあと何人の命を吸えば、貴女はもとに戻るのか。
「それまで、わたしの体が宝石にならなければよいが」
煙草に火をつけずに、ヴァレンチノは夜空をみあげた。
「戦がおきればいいのに」
ヴァレンチノの胸が、赤く光った。
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