唄う君を想って奏でる旋律・4

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唄う君を想って奏でる旋律・4

 それなのに。  そもそも、りとさんがピアノを習ったことは一度もないはずだ。小さい頃、どんな習い事に通っていたか話したことがあるけれど、書道と算盤しか聞いた覚えがない。  なかなか会えなかったのも、弾き語りの練習をしていたからだろう。昨日会っていた英語の先生には、発音を教えてもらっていたのかもしれない。  知らなかったとはいえ、俺はりとさんを疑ってしまったんだ。  曲が終わり、りとさんが大きなため息を吐き出す。 「緊張したぁ」  振り返ったりとさんが、両手のひらをこちらに向けている。 「見て、仁くん。こんなに手がふるえちゃって……」  勢い良く立ったりとさんの足下で、イスが転んだ。 「どうしたの、仁くん」  こちらへ駆け寄ってくる、りとさん。ヒールの音が店内に響く。 「ごめん……やっぱり私には似合わないよね。音楽をやってる人からしてみたら、冒とくだと思うし……」  泣きそうな顔で俯く、りとさん。 「ごめんね、ちゃんと別にプレゼント用意してあるから。だから、怒らないで」  怒る? 「怒ってないよ」 「ウソ。だって、仁くん泣いてるもん」  自分の頬に手を触れると、いつの間にか涙が流れていた。このままでは、りとさんまで泣いてしまいそうだ。沈黙を回収し、涙を拭いながら口を開く。 「りとさん、昨日見ちゃったんだ。英語の先生と一緒にいるところ」 「え?」 「最近なかなか会えないし、俺の部屋にくる時間も減ったし、もしかしたらって思って……」 「まさか、浮気とか?」 「浮気ならまだしも、本気だったらどうしようって。りとさん、ますますきれいになって行くし」 「平均点未満なのに? そんな心配しないで。言ったでしょ、仁くんと一緒だからマシに見えるだけだって」  ふわふわの髪をかき上げながら、りとさんが言う。 「ピアノ、習ったことあるの?」 「ううん、全然。初めてだったから、すごく時間がかかっちゃって。店長に夜な夜な教えてもらってたんだ。それなのにいっぱい間違えちゃった。ごめんね、仁くん」 「謝らないで」 「だって……歌はダメだから、せめて完璧に弾きたかったのに」  唇を結んだりとさんは、誰よりもきれいだった。 「完璧にって言っても、初心者用の楽譜を更にアレンジしてもらったんだけどね」  申し訳なさそうにりとさんが続ける。 「やっぱり仁くんってすごいと思った。一人の前で歌うのも緊張するのに、あんなに大勢の前で、しかもベースを弾きながら歌うんだもん」 「そんなことないよ。俺はただ長くやってるだけで……」 「ううん、仁くんは本当にすごいよ。私の誇り」  笑顔のりとさんを引き寄せて、抱きしめる。 「ありがとう、りとさん」 「どういたしまして。もう一つのプレゼント持ってくるから、ちょっと待っててね」  俺から離れたりとさんは、再びカウンターの中へ戻った。楽譜が乗せられたままのピアノが目に入る。  それはほとんど余白がないほどに文字が書き込まれていて、またジーンとしてしまう。 「すごいでしょ、店長のピアノ。ジャズも弾けるんだよ」 「うん」 「はい、これ」  りとさんが持ってきたのは、長方形の箱だった。そんなに厚みはなく、両手のひらに収まるくらいの大きさだ。 「あのね、本当は一周年のときに渡そうと思って買ったの。でも、なんとなく気が引けちゃって……このブランドのものなら、バンドのときにでも大丈夫かなって」  箱の中身はすぐにわかった。 「そのプレゼントを渡したからって、すぐに束縛とかそういう意味じゃないよ。ただ、仁くんに似合いそうだなって思ったから」  開いてみると、青いネクタイが入っている。俺はネクタイを取り出して、りとさんに渡した。 「やっぱり気に入らなかった?」 「めちゃめちゃ気に入った。りとさん、ネクタイ結べる?」 「え? 自分のはできるけど……」 「はい」 「えーと、私が仁くんのを結ぶってこと?」 「うん」  少し考え込んだあと、りとさんは意を決したようにネクタイを持ち上げた。 「シャツにして良かった」 「難しいなぁ……」  悪戦苦闘するりとさんを見て、結婚したら毎日こんな感じなのだろうか、と思う。レイディオ北見は個人商店だから、実際はノーネクタイなのだけれど。  一度顔を引いて、ネクタイのバランスを確認しているりとさんにキスをする。 「もう、仁くん。まだ途中なのに」 「ごめん」 「こっちがこうだから……」  結婚資金とは別に貯めているお金が、もう少しで婚約指輪を買えるくらいの額になる。今度はこっちがサプライズをする番だ。  プロポーズはいつがいいだろう。やっぱり、クリスマスかな。夜景がきれいなところに呼び出して、指輪を渡して……りとさんのために曲を作るのもいいかもしれない。 「ヨシ、できた」 「なんか短くない?」 「今はこれで勘弁して下さい」  拗ねている様子のりとさんが可愛らしくて、俺はもう一度その唇にキスをした。   了
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