唄う君を想って奏でる旋律・3

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唄う君を想って奏でる旋律・3

 ドアの前に立ったとき、違和感を覚えた。いつも出ている看板が見当たらない。代わりに置かれているのは、「CLOSE」と書かれたプラスチックのボードだった。鍵はしっかりと閉じられていて、建物は静かに眠っている。  鞄からスマホを取り出して、りとさんにコールした。  しかし、何度かけてみても繋がらない。パスタ屋にも電話してみたが、やはり今日は休みのようだ。  打つ手がなくなってしまい、俺はケンに助けを求めた。だが、ケンは残業中のようで留守電になっている。  まとまらない頭を抱えながら、俺はのろのろと自分の部屋に帰った。買い置きのビール缶を開けると、一気に飲み干す。一瞬むせてしまって、何回か咳が出た。  りとさんだったら、「コップに移して飲まないからだよ」って言うのかな。  あの人と会ってたから、俺の部屋にこれなかったのかな。  めっちゃ背が高かったな、あの人。  イケメンだったな、あの人。  きっと日本語もペラペラなんだろう。  何も俺の誕生日に会わなくてもいいじゃないか。  俺は冷蔵庫に入っているビールを取り出して、リビングのテーブルの上に置いた。これを全部飲んだら、明日は起きられないかもしれない。  そもそも、りとさんはまだ俺の誕生日を祝いたいと思っているだろうか。  元々ネガティブな俺は、どんどんこうやって落ち込んで行く。りとさんと出会って変わったはずだったのに。二缶目のビールを開けて、一気に飲み干した。  ……何やってんだ、俺は。  明日、目覚めるためのアラームもかけ忘れたまま、俺は三缶目のビールに手をかけた。   四  翌日。  目が覚めると、すでに太陽が高くなっていることがわかった。慌ててスマホを見ると、時刻は十一時半。りとさんとの待ち合わせは、十一時だった。せっかく誕生日の次の日だというのに、最悪な日になってしまうような予感。  すぐにシャワーを浴びて、身支度を整える。昨日飲んだビールがまだ残っているような気がして、ミネラルウォーターを一杯飲んだ。  空き缶とチョコレートの袋が居間に転がっていたけれど、片づけている暇はない。走って部屋から飛び出して、約束のパスタ屋へ向かう。  土曜日の昼だけあって、町を歩いている人が多い。合間を縫うように走り抜け、なんとか店へとたどり着いた。今日も看板は見当たらなかった。  代わりに『本日貸切』と書かれた白い紙が貼ってある。もしかして、りとさんが借りてくれたのだろうか。  昨日見たりとさんの楽しそうな姿が目に浮かぶ。それを振り払うように、重たいドアを開けた。  中は薄暗い照明がついており、いつもの雰囲気とは違っていた。店内のテーブルとイスは全て壁際に寄せられている。カウンターの前に座っていた巻き髪の女性が、立ち上がってこちらを見た。 「仁くん、きてくれたんだ」  その女性は、黒いドレスのようなワンピースを着ている。 「りとさん?」 「良かった、きてくれて」  微笑むりとさんはとてもきれいで、思わず絶句してしまった。いつもより濃いメイクと俺が贈ったネックレスのせいで、より華やかなイメージだ。 「今、メールしようと思ってたんだ」 「遅れてごめん」  それだけを告げて、立ちすくんでしまう。 「実は店長が旅行中で、こっそり貸切にしてもらったの」 「俺のために?」 「うん。どうしてもお祝いしたかったから」  りとさんは、わざわざ今日のために準備を整えていたのだろうか。 「仁くん、とりあえずここに座って。ちょっと料理を運んでくるから」  呆然としたまま、促されたカウンター席に座る。りとさんが一度カウンターの中へ引っ込んだ。遅刻したことを怒ってくれてもいいのに。混乱する頭で、そんなことを考えた。  カウンターから出てきたりとさんは、俺の隣には座らない。入り口とは反対方向に進んで行くと、壁の前で立ち止まった。一度咳払いをして、こちらを振り返る。 「仁くん、知ってた? 実はこれ、ピアノなんだよ」  りとさんが、ヨーロッパ諸国を彷彿とさせる模様が入った大きな布をめくる。顔を出したのは、年代もののピアノだった。持っていたのは楽譜だったようで、りとさんはピアノの前に白いそれを広げた。  一番近いテーブルの上のイスを下ろして、ピアノの前に置く。りとさんはそのイスに座り、両手を構えた。  耳慣れたバースデーソングが、りとさんの指から奏でられる。ピアノはきちんと調律されているようで、鍵盤の動きもいい。繊細だけれど力強い音が、店内に響く。  俺は感動で胸がいっぱいになってしまった。  バースデーソングが終了すると、りとさんは一枚楽譜をめくった。もう一度咳払いして、両手を構える。  ピアノの音色とともに聴こえてきたのは、りとさんの歌声だった。『星に願いを』の旋律に合わせて、英語の歌声が流れる。  りとさんはカラオケが苦手だ。つき合うようになってからも何度かカラオケには行っているけれど、未だにマイクを持つ手が震えるほどだった。
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