朝顔

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 妙に絵になる青年だなと思いながら、広瀬はビールを一口飲む。 「達彦なら多分、もうこの家に来ることもないだろう。……あいつの母親も」 「俺の妻、とは言わないんだね」  正木の指摘に、広瀬は唇を歪める。 「……この家は、しばらく誰も住んでなかったんだ」 「オヤジさんの海外赴任に、家族もついて行ってたんでしょ?」  このことを知っているということは、息子の友人を騙った泥棒ではなさそうだ。広瀬はわずかに警戒を解き、持っていた缶ビールを傍らに置いた。 「せっかく来てくれたんだ。飲むか?」  正木は薄く笑って頷いた。 「煙草も吸いたいんだけど」  広瀬は一度その場を離れてキッチンに行くと、缶ビールを取り出し、ついでに、灰皿になりそうな陶器の入れ物を持って縁側に戻る。  正木は、白い花に片手を伸ばして触れていた。 「あまり迂闊に触らないほうがいい。その花は――」 「毒がある、だっけ? ガキの頃、おばさんによく注意された記憶がある」 「葉から根から、全体に毒を持っているような植物だが、特に花の毒が強いらしい。念のため、帰ったら着ているものはよく洗ったほうがいい」 「――了解」  振り返った正木に缶ビールを出して見せると、ふらりと縁側に歩み寄ってきて、広瀬の隣に腰掛けた。この瞬間、一際強い花の香りがした気がして、広瀬は軽い眩暈に襲われた。 「それで、さっきの話だけど」 「えっ?」  広瀬が隣を見ると、髪を掻き上げた正木がまた流し目を寄越してくる。本人が意図しているわけではなく、こういうふうに人を見るのが癖らしい。  正木は薄く笑んだ。 「達彦とおばさんが、この家に戻ってくることもないだろう、って……」 「ああ……。海外にいる間に、離婚した。達彦は向こうの大学を卒業して、向こうの企業で勤め始めて、母親も一緒に暮らしている。俺は、海外赴任が終了して、一人で戻ってきたというわけだ。数日前」 「海外にいる間、この家は? 庭はちょっとしたジャングルみたいだけど、だからといって荒れてるようにも見えないし」  正木と話していると、妙な気持ちだった。いくら友人が住んでいた家だからといって、勝手に入り込んできたような青年と、こうして並んで腰掛けているのだ。その状況に違和感があるような、ないような。  息子と同じ年齢の青年は、敬語も使わず気安く話しかけてきて、広瀬もなんとなくそれを受け入れて、こうして会話が成り立っている。別に気分が悪いとか、腹が立つわけでもないので仕方ない。  それというのも――。  広瀬は、缶ビールを呷ってから、煙草に火をつける正木の横顔に視線を向ける。  不思議な青年だった。若いのに浮ついたところも青臭さもなく、だからといって大人びているというほどでもない。場の空気に溶け込んで、馴染んでしまう存在感を持つくせに、容貌はハッと息を呑むほど端整だ。  煙草を咥えた正木がこちらを見て笑ったような気がして、柄にもなくうろたえた広瀬は庭に視線を移す。  薄闇に沈んだ庭に咲く白い花が視界に飛び込み、なんとなく納得した。  正木は、この花のイメージと重なるのだ。パッと見はきれいで存在感があるが、迂闊に触れるのをためらわせる、毒を持つ花と――。 「……さっきまで、この庭の植物を、全部処分してしまおうかと考えていたんだ」 「植物って、でかい朝顔しかないじゃん」 「確かに」  二人は小さく声を洩らして笑う。 「もったいないよ、これだけ見事に育ってるのに」 「だけど、中年の男が一人わびしく住む家で、これだけ派手な花が咲き誇っているのも、なんだか癪に障る。さっきの君の質問だが、家と庭の手入れは、近くに住む親戚に頼んでいたんだ。あの朝顔に、たっぷり栄養を与えてくれていたようだな。……見事な咲きっぷりだ」 「処分するなんて言わないでよ」  正木がぽつりと洩らした言葉に、一瞬広瀬はドキリとする。まるで花の気持ちを、正木が代弁したような錯覚を覚えたのだ。  目を丸くする広瀬の見ている前で、正木はふっと煙草の煙を吐き出す、その仕草が、ひどく婀娜っぽかった。 「古きよき子供時代の思い出として、おれの記憶に刷り込まれてるんだ、この花。あの頃の無邪気な自分に浸れる。今じゃもう、すっかり大人の世界で擦れちゃってるから、なおさら、この庭の花に惹かれる」 「俺の息子と同い年の君に、古きよき、なんて言われると、俺はどうすりゃいいんだ……。今の君ぐらいの年の頃から働き続けた挙げ句に、妻と息子に見捨てられたんだぞ」 「――心配しなくても、苦労を重ねて、〈素敵なオジさま〉になってるって」  カラカラと笑いながら言われたところで、褒められている気はしない。ただ、悪い気もしなかった。  この家に戻ってきてずっと塞ぎ込んでいたのだが、正木と話しているうちに、久しぶりに気持ちが浮上する兆しを見せている。  だから、正木にこう提案されても、否とは言えなかった。 「理由があれば処分しないと言うなら、おれが毎日見に来るから、という理由じゃダメかな?」 「……明日から、きちんと玄関から入ってこいよ」  正木は、唇の端をわずかに動かすだけの笑みを浮かべる。  冴え冴えとした美貌には、この笑い方のほうが似合っていると広瀬は思った。
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