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翌日から、正木は言葉通りに、夜、家に通ってくるようになった。きちんと玄関から。
海外赴任を終え、それなりの役職についた広瀬は、夜遅くまでの残業から解放され、早い時間に会社を出られる身分となった。これがありがたいかというと、そうでもない。
外で夕食を終えて帰宅すると、あとはもう、引っ越しの荷物を解いて片付けるぐらいしか、やることがないのだ。ただ、広くなってしまった家に、一人分の荷物を収納していくのはひどく寂しい。そんな思いがあるせいか、作業は遅々として進まない。
「――繊細だなあ、広瀬さんは」
いつものように縁側に並んで腰掛け、ビールを飲みながらの広瀬の話に、正木は笑いを含んだ声でそう言った。
「ものは言いようだな。未練がましいと言って、バカにされるかと思ったんだが」
「するわけないじゃん。……一人は、誰だって嫌だよ」
正木の口調が切実な響きを帯びる。だからといって真剣な顔をしているかというとそうでもなく、缶ビールを置くと、広瀬の見ている前で廊下に仰向けで転がった。
「はあっ、酔った」
頭上に両腕を投げ出した正木は確かに、心地よさそうに目を細め、いかにも酔った表情をしている。ビールを欲しがるわりには、あまりアルコールには強くないことを、ここ半月ほどのつき合いで広瀬も把握してしまった。
寝転がった勢いで捲れ上がった正木のシャツの下から、白い肌が覗き見える。真夏で、この年齢の頃なら、いくらでも強い陽射しを浴びる機会はあるはずだろうが、正木は少しも日焼けする様子はない。
夜の月明かりの下でそんな正木を見て、広瀬の中に、ある好奇心が湧き起こった。
「……いつもこの家で会うのも芸がないな。どうだ。明日は外で、一緒に昼飯を食わないか」
ムクッと体を起こした正木が婀娜っぽい仕草で首を傾げる。
「どうして昼飯?」
「いや、それは……」
真夏の陽射しの下で、正木を見てみたい――。こんなことを、息子と同年齢の青年には言えなかった。改めて考えてみると、なんとも気恥ずかしい好奇心だ。
正木は急に真剣な顔となり、ある一点を見据える。
「広瀬さんとは、こうしてのんびり会いたいんだ。誰にも邪魔されずに。だけど、おれと広瀬さんて、昼間はまじめに労働してるだろ? そうなると必然的に会うのは夜になっちゃうと思うんだよね」
「……働いているのか」
意外に思って広瀬が言うと、正木はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる。
「何、おれって、昼間からフラフラしてるように見えるんだ」
「そういうわけじゃないんだ。ただ、生活感がないと思って。俺にとっては、夜になるとポッと姿を現す存在なんだ、君は。会うのは夜だけだから、仕方ないが」
「昼間もおれが存在しているか、不安になった?」
まさに、その通りだった。広瀬が何も答えられないでいると、正木は気を悪くしたふうもなく、一人納得したように頷く。
「繊細な広瀬さんに思い悩まれて、胃に穴でも開けられたら大変だから、善処するよ」
「俺はそこまで柔じゃないぞ。……離婚のことで協議しているときも、胃が痛んだことは一度もなかった」
自嘲気味に広瀬が洩らすと、ふいに頬に何かが触れる。知らず知らずのうちに伏せていた顔を上げると、正木がスッと手を引くところだった。頬に触れたのは、正木の手だったのか、ふいに吹いた風の感触だったのか、広瀬には判断できない。
「おい――……」
「広瀬さんが休みの日に、そのうち昼間に現れてあげる。おれは気まぐれだから、期待はしないでよ」
悪意のない傲慢さが、正木にはよく似合っていた。広瀬は、楽しみにしている、と応じる。
「今日はもう帰るよ。いつもより酔いが回るのが早い……」
緩慢な動作で正木が立ち上がろうとしたので、見送るために広瀬も倣う。正木はいつも気ままにやってきては、気ままに帰っていく。十分もいないときもあれば、一時間以上、縁側に腰掛けて庭を――朝顔を眺めているのだ。
足を一歩踏み出した正木の体が揺れる。広瀬は咄嗟に、正木の肩に腕を回して支えていた。この瞬間、広瀬は自分の中に走った衝撃をなんとか表に出ないよう抑え込む。
これまで、目の前に存在していながら、どこか掴みどころのなかった正木を実体を、ようやく捉えたような気がした。広瀬は、別に本気で、正木は幽霊ではないのかと疑っていたわけではないが、とにかく驚いた。
「……大丈夫か」
「平気。今日は喉が渇いてたから、早いペースでビール飲みすぎたかな」
「なんなら、タクシーを呼ぶか?」
正木は答えず、ただ軽く片手をあげただけだった。
向けられた背を引きとめたくなったのは、広い家に一人で取り残される寂しさからなのか、それ以外の感情からなのか、軽い酩酊感を覚えた広瀬はあえて深く考えなかった。
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