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「……何を、してるんだ……」
囁くような声で広瀬が問いかけると、人影の正体である正木は、ゆっくりと振り返って笑いかけてきた。いつから庭にいたのか、全身ずぶ濡れで、髪先から水が滴り落ちている。
「――まだ、処分してないんだ、こいつら」
「仕事が、忙しかったんだ……」
「そう」
「放っておいたら、枯れるんじゃないかとも思っていた。そうしたら、手間がかからない」
つい余計なことまで説明してしまうが、気にした様子もなく正木は頷いた。
「確かに、おれが来たときは元気がなかった。でも今は、ずいぶんマシになったよ」
その言葉を聞いた広瀬は、慌ててサンダルを履いて庭に出た。木立朝鮮朝顔の木に駆け寄り、雨に濡れた花や葉を手に取ると、廊下からの明かりを頼りに観察する。萎れ、枯れかけているものすらあったというのに、今はもう、瑞々しさを取り戻していた。
「何か、したのか?」
思わず広瀬が問いかけると、おもしろがるように正木は唇を綻ばせた。
「おれが肥料でも与えたのかってこと?」
「いや……、そういうわけじゃ……」
「だったら、おれが魔法を使った?」
からかわれているとわかったが、明らかに広瀬のほうが分が悪い。しかも、さらに自らを追い詰めるようなことを口にしてしまう。
「……この何日か、元気がなかったんだ。いくら水をやっても、どんどん萎れていって、枯れそうだった」
「広瀬さんは?」
質問の意味がわからず、広瀬は目を細める。正木は髪を掻き上げ、大きな花の一つをてのひらにのせた。
「伝わってくるんだ。こいつらから、広瀬さんの気持ちが。――どうしようもない孤独と寂しさ、人恋しさ。それと、諦観も」
「でたらめを言うなっ」
「広瀬さんだけがこの家に戻ってくるまで、こいつらにあるのは、かつて住んでいた家族の思い出だけだった。それはそれで、おれは気に入ってたけどね。だけど、その思い出に上書きされたのが、広瀬さん個人の濃密な孤独だ。……おれは、放っておけなかった」
ウソか本当かわからない正木の話に、広瀬は胸を抉られるような思いがした。もう、誰も読み取ってくれることはないだろうと諦めていた、広瀬の切実な感情を、正木が明確な言葉にしたからだ。
正木は、幼いのか老成しているのかよくわからない、印象的な笑みを向けてきた。
「――おれが来なくて寂しかった?」
この問いかけは決定的だった。
広瀬は正木のすぐ側まで歩み寄ると、のろのろと手を伸ばして、白い額に張り付いた前髪を掻き上げてやる。
「ああ……」
「素直でいいな」
広瀬はやっと笑うことができた。
「一つ、教えてくれ」
「何?」
「こいつらが枯れかけていたのは、君のせいなのか? 君が、来なくなったから……」
「〈普通の人間〉が、そんなことできると思う?」
挑発的な眼差しを向けられ、広瀬は追及を諦めた。多分真相を知ったところで、あまり意味はないだろう。結局のところ、この庭の中で起こる、些細な出来事だ。誰かに語って聞かせるようなことでもない。
何より広瀬自身、正木がこうして目の前に存在している限り、理由も原因も、どうでもよくなっている。
ただ、これだけは言っておきたかった。
「――……煙草は毒だから、あまり吸うな」
「おれ自身に毒があるのに、そう心配いらないと思うけど」
正木はそう言いながらも、広瀬のパジャマの胸ポケットに、煙草とライターを捩じ込んでくる。
「捨てておいてよ」
ああ、と応じた広瀬は、自らに毒があると言った青年の体を強く抱き締めると、夜になると一際強く放つ芳香を、思いきり吸い込む。
広瀬は眩暈に襲われながら、抱えた孤独が淡く溶けていくのを感じた。
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