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僕は少し考えてからこくんとうなづいた。
「とってもおかしい」
そう言うと先生はくすくすと笑った。真剣な表情をしていると人を寄せつけないような、どこか冷たい印象があるけれど、笑うとえくぼができて人懐こくなるような気がする。目をぱちぱち瞬きさせた僕は、ふっと先生の足元に目を落としてぎょっとした。玄関先で見た先生の濃くてはっきりした影は、僕の影の色と比べて薄い。ううん。さっきより薄くなっているみたいだった。
「僕はね、君に最後の授業をしたかったんだよ」
先生は組んだ両手の上に顎をのせる。僕を見る瞳はいつもどおり優しかった。
「今ごろ、お葬式だよね?」
恐る恐る聞くと先生がそうだねと首を傾けた。以前よりもほっそりしたように思える顔に影が走る。
「中身は空っぽだけどね」
「ねえ、先生……」
「僕はね、死ぬのが不思議で仕方なかった。なんで人は生まれて最後には死んでいくんだろう。どうしてそれを我々は受け入れなければならないんだろう。仏教もキリスト教も科学も何一つとして明確な答えを僕にはくれなかった。生まれて老いて死ぬ。この世界の自然のシステムだから?それじゃあ、なぜそんなシステムができてしまったのだろう」
黙って聞いている僕の耳に、ひぐらしの声が鳴り響く。庭の大きな木にとまって鳴いているのだ。お盆が過ぎるころに鳴き始めて、そろそろ夏は終わりだと知らせてくる。そのうるさいひぐらしの声が、今の僕にはありがたかった。しんと先生の話を聞いていたら、気が狂ってしまっただろうから。
「僕はバカだから。たくさん勉強して考えて調べた。チベットの奥地やインドの深部と呼ばれる場所にまで、何とか入りもうとしたよ。こういう時は役に立つね。優秀な学歴や優秀な頭脳って。英語は死に物狂いでマスターしたし、必要な語学は生活できるくらいになら話せる。これは僕が天才だったからとか、才能があったからとかそういう理由じゃない。文字通り必死で勉強して自分のものにしていったんだ。君だってそうだろう?決して楽してこの問題が解けるようになったわけじゃない」
まるで操られたかのように僕はうなづく。小学校三年生の僕に解けるはずのない問題だけど、毎日、取り組んでいる内に解けるようになった。正直に言えば小学校・中学校・高校で習うはずの他の科目も全部解ける。さっきまで取り組んでいた英語のテキストは、私大でも一流の英文学科の試験問題だった。センター試験の過去問を解いたら90%は解けるしTOEIC試験を受けたら、900点を超えていた。ただし、試験会場で受けていないから記録には残っていないけれど。
クラスのみんなにも家族にも秘密にしていることをこの先生は知っている。僕がIQの高い子供なんじゃないかってこと。
「君は賢くて優しい。だから、本来の力を発揮しないことで、何とか生き延びようとしたね?」
IQテストは一度受けたことがあるけれど、普通よりちょっと高い程度。他の子どもと比べてそんなに違わない。そう、テストで僕はワザと間違えた。今もそう、学校のテストで高得点を取らないよう苦心している。
「ご両親にすべて話し、もう一度IQテストを受け直すことを僕は勧めるね。海外に行けば飛び級制度を使って、今からでも大学生とまじって講義を受けられる。いや、すぐに卒業してしまうかもしれない」
「僕は、そんなこと……」
「望んでいるよ。その内我慢ができなくなる。ひきこもって一人で勉強するのも良いけれど、君の才能が役に立つ場所が必ずある。僕は信じてるよ」
ひぐらしの声がぴたりととまり、とっぷり暮れる夕焼けと交代して星が瞬き始める。逢魔が時っていうんだけっと頭の隅で考えながら、先生の次の行動を予測する。先生の影がますます薄くなり、もう少しで消えてしまいそうだった。
「先生は見つけたの?死ななくてすむ方法」
先生の瞳がおかしい。猫の目みたいに縦に線が走った。先生は何も言わずに僕の手首をつかむと、自分の心臓の上に僕の手の平を押し当てる。生きていればするはずの鼓動がまったくなかった。
「不完全かもしれないけれどね」
「先生のお母さんやお父さんは知ってるの?」
「僕の葬式は家族葬、葬式を執り行う葬儀会社が僕らの事情をよく汲んでくれた」
「先生」
「賢い君はこう言うだろう。やめた方が良い。今からでも遅くない。死んじゃうのは辛いけど、人間のままの方が良い。このままじゃ」
「「バケモノになってしまう」」
最後の言葉は僕と先生が同時に言う。先生が離した僕の腕が所在無げにだらりと下がる。僕は僕は。
「他の子より飛びぬけて頭の良い君は、自分がバケモノのように思ったかもしれないが、君のような子は他にもいる。大したことない。」
先生は話しながら立ち上がった。僕はぼんやりと先生の歩く姿を目で追う。今じゃ先生の影はまったくなかった。瞳の走った縦の線は消えたけれど、その代わり瞳の色は黄金色に変わっていた。
「もう一度言う。今の環境から飛び出してみなさい。自分がどれだけちっぽけで、世界がどれだけ広いかわかるから」
これが先生の最後の言葉だった。
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