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第二話 街角に雨が降るとき
とある土曜日の下校時、にわか雨が降ってきたかと思うと、すぐに土砂降りの豪雨となって道行く人を追い立てた。
傘を持っていなかった俺は、交差点の花屋の軒先を借りてぼんやり空を見上げていた。コンビニで時間を潰してもいいのだが、姉に見つかると「みっともない」などと小言を言われるので避けているのだ。
交差点に面した百貨店の時計台が、十三時ちょうどに軽快な曲を鳴らし始める。ふと、何かの気配を感じて視線を下げると、黄色い帽子を被った小学生がすぐ隣に立っていた。赤いランドセルからすると、女の子だろうか。ちっこい雨宿り仲間が増えて、俺は何となくほんわかした気分になった。
暫く待ったが、雨足が止む気配はない。長時間外に立ち続けるのは辛い季節だ。どこかで傘を買った方が早いかなと思い直した時、隣にいたその子が突然飛び出していった。
親御さんが迎えに来たのだろう。向こう側で手を振っている人がそうなんだろうか。いやしかし、別の子が手を振り返しているじゃないか。どういうことだ? 少し気になって目で追っていると、その子は歩道を超えて、車道にまで飛び出そうとしていた。
「ちょっ────」
声を上げると同時に体が飛び出していた。急ブレーキの音、直後に強い衝撃が続いた。
§
「何があったの?」
病院のベッドに横たわったままの俺に、姉は怖い目で尋ねた。唯一の保護者である母は医者と面談しているので、俺と姉の二人きりだ。
「子供が車道に飛び出して行ったから、それで…………」
「花屋さんは、あなたが一人で飛び出したと言ってるわ」
「本当に、いたんだ」
姉はぐっと唇を噛んだ。
「疑ってる訳じゃない。打ち身程度で済んで良かったけど、一歩間違えれば…………」
冷静に話していた姉が涙声になるのを聞いて、俺はようやく二人に心配をかけていたんだという実感が湧いてきた。ごめんと謝る俺に、姉は顔を俯けたまま首を振った。
幸いにも車が急停車中したので、衝撃はさほど大きくはなく失神だけで済んだようだ。CTスキャンも異常なしとの結果が出た。警察の通り一遍の聞き取りを受けたが、衆人環視の中で俺が突然車道に飛び出したということになっていた。ドライバーが謝罪に訪れたものの、客観的には俺が悪いので適当に言葉を濁す他なかった。
§
退院から数日、俺と姉は問題の交差点にまでやって来た。姉はじっと交差点を見つめていたが、何も見えないと首を傾げた。霊視ができる姉にも見えないということは、やはり幻覚だったのだろうか。姉は諦めきれなかったのか交差点前の花屋に向かい、おかみさんに他の事故がなかったかを尋ねていた。
「ああ、そう言えば一年前…………」
§
それは雨の日だったそうだ。小学生の子供を迎えに、交差点までやって来た母親が、車道の向こう側に子供がいるのを見かけて手を振った。すると子供は赤信号にも拘らず、車道に飛び出していったのだとか。
「子供が轢かれた時、母親は半狂乱になっていたわ」
「その後、母親は?」
奥さんは申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね、そこまでは知らないの」
§
姉は事故についてネットで情報を集めた上、付近の小学校にまで連絡を入れ、その母親を呼び出した。狩野さんというらしい。土曜日の午後、例の交差点近くの喫茶店で三人で会う約束まで取り付けたのには驚いた。
当日、向かいに座った狩野さんは、どこにでもいそうな主婦といった趣だった。少しやつれたように見えるのは、娘さんのことが未だに尾を引いているせいだろうか。
「電話でお話しましたが、娘さんらしき霊を弟が見たと言っています」
「────あの、それ本当なんでしょうか」
目だけでなく、声にも力がない。目の前に出されたコーヒーには手を付けず、彼女は落ち着かぬ様子できょどきょど視線を彷徨わせながら、姉に問い返す。
「ええ。ですから、お母様に来て頂きました」
狩野さんは視線を交差点に向けた。しかし、そこはいつもの光景が広がっているだけで、あの時に見た霊らしき子供は俺の目にも見えなかった。
「お子さんが亡くなった時、雨が降っていたそうですね」
「え? あ、はい…………」
「天気予報では、今日は午後から雨が降るそうです。それまで待ちましょう」
時刻は十三時に差し掛かっている。時刻は狩野さんの娘さんが亡くなったまさにその時に近づいている。
「今まで霊の目撃例が殆どなかったのは、単に霊視能力の問題だけではないと思うんです。それなら、私にも頻繁に見えていたはずですから。理香子ちゃんが現れるには、幾つかの条件が必要と思われます」
姉は淡々と、狩野さんに語り掛ける。その冷静な口調に、狩野さんも落ち着いてきたようだった。
「幾つか考えられますが、土曜日であること、雨天であること、時刻は十三時過ぎであること。そして、最も重要なのは恐らく────」
姉もまたコーヒーには目もくれず、狩野さんをまっすぐ見つめていた。
「道路の向こう側に、狩野さん……もしくは狩野さんによく似た人がいることです」
「本当に…………そんなことが…………理香子が、私を探しているって言うんですか?」
「そう思います」
狩野さんは、信じるべきか迷っているようだった。しかし、姉の態度が余りに冷静で確信的であるためか、それ以上疑うような事は言わなかった。
「もう頃合いです。出ましょう」
喫茶店を出た俺たちは花屋の反対側の歩道に並んだ。
空は黒ずんだ雲に覆われ、いつ降り始めてもおかしくないほど空気は湿っている。交差点に面した百貨店の時計台が、十三時丁度に軽快な曲を鳴らし始めた。程なく小雨が降り始め、時刻は十三時二分、五分と過ぎていく。雨はすぐに大粒となり、先週と同じように土砂降りの豪雨となった。
「あ…………」
いた。雨の中、黄色い帽子のあの子が、こちら側に向かって走り出そうとしていた。
狩野さんにも見えたらしい。両手を頬に当て、目を丸くして立ち竦んでいる。その両目から、涙が溢れていた。
その亡霊……理香子ちゃんは車道を突っ切って、走行する車をすり抜けて狩野さんに駆け寄り、狩野さんの腕の中に飛び込んだ。歩道の端で膝を付いて空を抱き、肩を震わせて嗚咽する狩野さんに、姉はただ黙って傘を差し伸べ続けていた。
§
「理香子ちゃん、お母さんと出会えて良かったね」
「────そうね」
家に帰ってから、リビングで姉の淹れたハーブティーを飲みながら、俺は今日のことを思い出していた。
「あの子、ちゃんと成仏するのかな」
「大丈夫じゃないかな……そうじゃないと、困る」
「困るって……まあそうだけど。そう言えばあの後、二人で何か話してたよね」
あの後、姉は狩野さんをやや離れた場所まで引っ張り、二人だけで何か話し込んでいた。俺は離れているように言われていたので、何を話していたのかまでは分からなかった。あの時、狩野さんが姉と俺にしきりに頭を下げていたのがどうも引っ掛かっていたのだ。単に感謝を表すには大袈裟ではないかと。
「『お宅の娘さんのお陰で、弟が死んだかも知れないような事故に遭いました』って、伝えておいたの」
思わず咳き込みながらも、俺は尋ねた。
「な……え……? どうして…………」
「どうして? どうしてって?」
俺の問いを聞いて、姉の声音が低く変わった。機嫌を害した時の典型的パターンだ。姉の目はかつて見たこともないほどの真剣味を帯びていた。張り詰めた空気の中に、姉の微かに震える声が響いた。
「あなた、下手をしたら死んでいたのよ?」
いつかも聞いた言葉を、姉は繰り返した。それがどれだけ重い意味を持つかを分からせようとするかのように。
「狩野さんも、お子さんも確かに不幸な目に遭った。でも、だからと言って他人も巻き込んでいい理由にはならない」
「そう……だけど。別に大けがとかなかったし……」
「そういう問題じゃないでしょう!!」
余りに強い怒気に俺は口を閉ざした。
「私と母さんがどんなに怖い思いをしたか……あの理不尽さにどれだけ憤りを覚えたか……その思いも全部私たちだけで背負えと言うの? あの二人に責任はないとでも?」
ごめんとも気軽に言えず、俺は黙っている他なかった。やがて立ち上がった姉もまた無言のまま自室に引篭ってしまった。
§
翌日、再びあの交差点に来た時、姉は例の花屋で白い花を買い求め、理香子ちゃんが亡くなったすぐ近くの生け垣に献花した。手を合わせる姉に倣って俺も理香子ちゃんの冥福を祈った。
「スズランの花言葉を知ってる?」
首を振った俺に、姉は花を見つめたまま言った。
「”Return of happiness”、『再び幸せが訪れる』───致死性の有毒植物でもあるけれどね────」
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