第一話 対岸の誘い

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第一話 対岸の誘い

 高校への通学路には、一か所だけ橋が架かっている。二車線の車道と、その両側に歩道があるだけのありふれたコンクリートの橋だ。見慣れた風景の一部として溶け込んでいたこの川で異常が起こったのは、七月の半ばくらいだった。  下校途中、夕闇に暮れなずむ町を抜け、住宅街に向かう橋を渡ろうとした時だ。雑草の生い茂った河川敷に、ちらりと白い制服らしきものが視界に入った。暗さと雑草のせいではっきりとは分からなかったが、見覚えのある明るい紫のスポーツバッグが見えた。  後姿から、クラスメートではないかと見当が付いた。こんな時間に河原で何をしているのか、違和感を覚えた俺は橋の脇の階段を降りて彼女の元に向かった。  雑草を避けてすぐ側まで行ってみると案の定、明石美奈だった。彼女は、陸上部で短距離走を得意としているスポーツ女子だ。短い髪に少し日焼けした丸顔。ボーイッシュに見えて良く気が利くので、男子からの人気も高かったりする。 「明石、何してんだ?」  声を掛けても彼女は俺に反応せず、うつろな目を前方に向けたまま、一歩、また一歩と進み始めた。 「明石、どうしたんだよ?」  歩みを止めない明石に付いて行きながら、俺は焦り始めた。このまま進めば、川に入ってしまう。この川は流速が大きく、所々深い部分もある。実際、二、三年に一度は溺死者がでる。 「……き……ます」 「え?」 「いきます」 「何言ってんだ?」 「いきます……今いきますから…………」  ポチャン……。  明石が片足を川に突っ込んだ。これ以上放置できないと判断した俺は、ぶつぶつ呟く明石の腕を掴んで後ろに引っ張る。 「何やってんだよ!!」  思わず大声を上げた次の瞬間、バランスを崩した明石は、斜め後ろにいた俺の方に倒れて来た。咄嗟に俺も一緒に倒れながら受け身を取り、明石を受け止めた。 「どうしたんだよお前!!」 怒声を上げた俺の頭上から、落ち着いた声が響いた。 「何してるの?」 「姉ちゃん……」 彼女は遠野佐月。俺こと遠野暁(とおのあきら)の一つ上の姉。 「さっきから、こいつ変なんだよ。話しかけても答えないし、川に入ろうとするし……」  説明している間にも明石は弱い力で立ち上がろうとしていて、俺は肩を掴んで彼女を抑えていた。姉は向こう岸を少しの間見ていたが、俺の側に屈みこむと、明石の手を握って額同士を付き合わせた。目を閉じた姉から、一瞬なにかが明石に流れ込んだような気がした。直後、明石はくたり、と脱力した。 明石を階段の所まで運ぶと、 「ここで彼女を見ていてあげて」 姉はそう言い残して、川岸に向かった。 §  姉の佐月は霊媒体質だ。俺がそれをはっきりと理解したのはつい最近のことだった。思い出してみれば、あれがそうだったのかなと思うことは幾つかある。だが、姉の行為が除霊の類のものだとは、幼かった俺には理解が出来なかったのだ。  姉は川辺に立ったまま対岸を見ているようだったが、やがて川に沿って移動し始めた。時折屈んでは移動を繰り返している。そうこうする内に陽が沈み、周囲を闇が覆い始めた。姉の姿はいつの間にか見えなくなっていた。  姉のことが心配になってきた俺は、明石が眠りこけているのを確かめ、彼女を階段に残したまま川岸に移動した。コンクリートの川岸には、握りこぶし大の石が二、三メートルに一個の割合で置いてあった。姉が置いて行ったものらしい。 「……何してるの?」  近づいて声を掛けた俺に、姉は振り向いて首を傾げた。 「あの子は?」 「階段のとこ」 「見ていてって、言ったでしょう?」 「うん……でも、姉ちゃんのことも心配になって……」  姉は小さくため息をついて、少し考えるように腕を組んだ。 「暁……向こう岸に、何か見える?」 「え? 向こう岸?」  対岸を凝視しても、闇に沈んだ川面と岸辺の藪が広がるばかりだ。 「……何も見えないけど……」 「そう……よね。今から見せてあげるから、声を出さないでね」  姉はそう言って、俺の手を握った。その瞬間、何か波動のようなものが腕を伝って体内を駆け巡った。 「もう一度、見てご覧」  姉に言われた通り、もう一度向こう岸を眺めて……。 「っ!!」  声を上げそうになり、はっとして口を抑える。向こう岸には、白い人影が浮かび上がり、俺達がいる岸に向かっておいでおいでをしていた。数は十くらいいた。 「何、あれ……」 「分からない……死者の魂なのは間違いないけど…あなたには、どう見えてるの?」 「白い影が、手招きしてる」 「白い影、ね…………。私には、もっとはっきり見える。でも、もういいでしょう。帰りましょう」 姉はそう言って、俺を連れて明石の元に向かった。 「明石は、あれに誘われたのかな」 「多分ね。あなたには、彼らの声は聞こえなかった?」 「声? いや、聞こえなかったけど」 「そう。彼らはさっきから、ずっと繰り返してるわ。『ここに来い』って」 「……それは聞きたくないな」  姉は少し笑って見せた。 「そうね。聞かないのが一番かも」    階段に戻り、明石の肩を軽く叩きながら声を掛けてみた。 「明石、明石、起きろよ」 「ん……あれ?」 目を覚ました明石は、不思議そうに俺を見つめ、周囲を見回した。俺の背後にいる姉に気が付くと、はっとしたように立ち上がった。恐縮する明石を家まで送り届け、二人帰路についた。 「さっきの、何だったの?」 歩きながら、姉はうーん、と少し考えてから答えた。 「正確には分からないけど……溺死した人の霊が七人集まって、生きている人を死に引きずり込むという七人ミサキという怪異譚があるのよ。一人死人が加わると、元いた霊が一つ成仏する、という話。あれはおそらく同類かも知れない」 「そうなんだ……明石、結構危なかったかもね」 「あの子は憑依体質ね。さっき、互いを知覚できないように石で結界を作っておいたわ。彼らはその内いなくなるから、後は放っておきましょう」 横を歩く姉が少しよろめいたので、肩を支えた。 「ごめんね、少し疲れちゃった」 少し体が震えているようだった。霊能力者は体力も使うらしい。暫くの間、公園のベンチで休息を取った。 「大丈夫?」 「うん。少し休めば回復するから。明日、明石さんの様子をそれとなく見てあげて」 「ああ、分かったよ」 「ねえ…………」 「何?」 「私がいなくなったら、寂しい?」 「え? まあ……そうだな」 大学とか就職の事を言ってるのだろうか。少し考えたが分からなかった。姉の真意を悟ったのはずっと後のことだった。それでも、姉の寂し気で達観したような眼差しは時が過ぎても忘れることはできなかった。
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