先生、先生

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先生、先生

「講師として参りました、断荼と申します。本日限りですがよろしく御願い致します」 美術の時間にやって来たやたら腰の低い先生はそう言うと深々と頭を下げた。 緑の着物に紫の上着を肩に掛けていて、落ち着いた印象のある色合いだった。 顔立ちの整ってる男性だと思った。 表には出さないものの男に飢えてるであろう女子達がはしゃぎ、既に媚び始めた高い声でひそひそ話をしそうだとも思った。 だが、そうさせまいとする雰囲気がその先生にはあった。 先生は眼帯をしていて、頬にガーゼを貼り、首には湿布、着物から覗く胸元にはまるでさらしかのような包帯、指は血の滲む絆創膏が多く着いていた。 余程の不器用か、一方的な暴力を受けでもしないとこうはならないだろう。 先生そのもののおだやかな様子が怪我をより悲惨に見せてくる。 その痛々しい怪我の目立つ異様な姿で教室内は静まり返っていた。 こういった反応をされることに慣れているのか、先生は何事も無いように授業を進めていく。 今日の課題は『窓から見える風景』を描くことだった。 真っ先に何人かが窓の方へ駆け寄り、それに合わせるように他の女子も後に続いていく。 気付けばあたし以外の全員が窓に群がり顔を出し何処を描こうか相談し合っていた。 あたしは、自分の席から見た窓とその向こうにある景色を描こうとしていた。 新しいもの好きの女子達は授業だということも忘れ、作業の手よりも先生に次々と質問する口の方がよっぽど動いていた。 内容といえば好きなものは甘味だとか、動物とお化けが苦手だとか、出身は京都だとか、伴侶どころか恋仲すら居ないだとかとくだらないものばかりだった。 ただ、あたし達くらいの若い顔をしているのに二十六歳という、予想よりも年上だったということには正直少し意外だと思いはした。 母親譲りで、学生の頃で成長が止まってると言う。 それはまた随分と童顔な先生だ。 少しすると調子が乗ってきたのか全員作業に集中するようになっていた。 全員が空だの木だの店だのを描いている中、あたしだけ窓を描いていたものだから周りから嘲笑のような小さな笑い声が聞こえて来た。 何とでも言えば良い。 笑えば良い。 気にしないようにしていた。 絵に集中するようにしていた。 「おや、貴方だけはその描き方なんですね」 先生の声がした。 聞き慣れない低い声に意識が戻され、少し不機嫌になりぶっきらぼうな態度をとった。 「…窓から見える風景なんでしょ。あたしはこれだと思ったの、これが描きたかったの」 どうして話しかけて来たのだろう。 違うとでも言いたいのか。 描き直せとでも言いたいのか。 晒しあげて笑いたいのか。 他の先生や周りの人間と同じように。 この人も、結局は 「ええ、そうですね。皆さん窓の外を描いておられたので、統一していたとばかり思っていました」 何が言いたいのかわからない。 いや、わかってはいる。 そんな遠回しに言わなくても。 協調性の欠けた女だとはっきり言えば良いものを。 腹が立つ。 くすくすという笑いが大きくなってきている気がする。 うるさい。 うるさい 「周りに流されず、周りからの目も気にせず『自分』を貫くのはとても素晴らしいことだと思いますよ。貴方らしさ溢れる素敵な作品、完成を拝見出来るのを楽しみにしていますね」 差し出されたのは、荒んだ想像ばかりしていた自分が恥ずかしくなってくるような、思ってもみなかった言葉と 先に景色を描いてから窓を描いた方が均衡が取れてより自然に見えるという何でもないただの助言だった。 全く悪意の感じない褒め言葉だった。 穏やかな声と、無数の痛々しい怪我すら霞んで見えてくるやわらかな微笑みが、触れていない筈の頭を優しく撫でてくる。 何故だかとても暖かい。 いつの間にか教室は静かになっていた。 その後の作業は楽しく、普段と比べてみても異様に捗っていた。 結果を言えば、時間が足りず完成出来なくて先生に見せることは出来なかった。 それだけがどうしても心残りであったが、気持ちはとても晴れやかだった。 また会いたい。 遅れて完成させた絵を見つめながら、心からそう願った。 あたしはあの先生に助けられたんだ。 初めてあたしに手を差し伸べてくれる大人が現れた。 だから、あたしも先生を助けたい。 あの怪我を治して、楽にしてあげたい。 医者は……駄目だ。 この御時世、女は医者になりにくい。 医者として認められない。 この世界、全員が先生のような人間ばかりなら良いのに。 怪我には軟膏 軟膏は塗り薬 薬 薬 そうだ、 あたしは薬屋になるんだ。 待ってて先生。 次はあたしが助けてあげるから。
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