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「何処かに出かけたい」  二人では狭いユニットバスに一緒に入り、シャワーを浴びている時、ふと思い出したように要が呟いた。 「俺、一度も葵を何処かに連れて行ったことがない気がする……」  要はそう言いながら両手で顔を洗ってから、自責の念に捕らわれ始めて背中を向けてしまった。普段前向きだが、突然こうして何かに気付いて、気持ちが急降下してしまうのは、彼の悪い癖だ。しかもこうなると長い。俺は彼の背中を撫でながら、 「落ち着いたらで良いよ」  と声を掛けるが、 「そんなの待ってられない」  と、間髪入れずに言われてしまう。  確かに、最近新しいドラマの撮影が始まったばかりという事で、彼のタイムスケジュールはパンク寸前だ。その上映画の話も出ているようだから、彼の多忙さは尋常ではない。  彼の言う通り、大人しく待っていたら何年先かわからないと言うのも頷けるけれど。  俺は息を吐いてから、白く煙る湯気の向こう側の、今は丸まっている広い背中を抱き締めた。湯を弾く白くきめ細やかな要の肌は、見た目よりも骨が浮き、固い。服を着てしまえば細身に見えてしまうので、どちらかと言うと、中性的な顔立ちも含めて可愛い部類になってしまうけれど、脱ぐとやはりしっかりとした男だ。  シャワーの流れる音に重ねて、背中に押し当てた耳に、要の鼓動がとくとくと、規則正しく聞こえてくる。  どこにでかけなくても、こうしているだけで幸せだと思うのに、要はそれじゃだめだと、何故か譲ろうとしない。  おそらく先日の事もあってだろう。  仕事はきちんとこなしているようだが、会えば要の盲目的な愛情は、少し心配してしまうような危うさを含んでいた。 「葵、もっかいしたい……」  不意に要が振り返り、俺の身体をすっぽりと抱き締めてくれる。熱い位の体温に包まれると、心臓が跳ね返り、要の身体から漂う香りに、頭の芯が蕩けてくる。  彼の手が腰を通り、尻の曲線を撫でてくると、背筋がぞくりと騒めいて、右腰に甘く響いた。  肌を雫が滑り落ちて行くように、彼の柔らかな指先の皮膚が、尻の間にするりと入り込んでくると、思わず身体が震えて、俺は要にしがみ付いた。  こんな風に触れ合うだけで、心は温かいこのシャワーのようなぬくもりに包まれて、何にも代えがたく幸福で胸を満たしてくれる。彼がそばにいる事がどれだけ幸せなのか、俺は彼に伝えきれていないのだろうか。  俺は要の身体を抱き締めた。  ぴたりとくっついた身体の縁を辿るように、幾筋もの雫が流れ、身体を温めて行く。要の濡れた髪先が、肌を擽ると、堪えていた唇の端から息が零れた。 「ここで……?」 「どこでもいい」  雨音のようにシャワーが声を掻き消して行く。  足元から立ち込めてくる湯気に、肺が湿って息が濡れると、俺は要の指先以外何も考えられなくなっていた。
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