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いくつかある内の後悔と予感
浅草で東武伊勢崎線に乗換え、次の乗換がある曳舟という駅に着いた。ここで北千住行きの急行を待つわけだが、わざわざ電車を変えるのが面倒なのでこのまま各駅停車で行こう。どうせまだ篠田から返事ないし。
この町には数え切れないほど思い出がある。通っていた高校がある町だ。
高校生になっても僕は中学生の頃とあまり変わらず、友達を集めて荒川の空いている球場で勝手に草野球したり、公園で缶蹴りしてみたり、辺りが暗くなるまでエロ本を探し回ったりしていた。夜の公園で補導されそうになる度に一斉に散り散りになった後で、違う公園で再集合して「今のはマジでヤバかったな!」と小さなスリルで満たされた。
学校近くの「パチンコタワー」の「パ」の配線を誰かがイタズラしたのか、電飾が消えて幼稚な名前のタワーになっていた時は立っていられないくらい笑い転げた。部活が休みの日は友達の家に集まって、各々親父の秘蔵DVDを持ち寄って鑑賞会を開いた時はみんなお約束のようにそわそわしていたし、気になる女子やゲームの攻略法で盛り上がったりした。模範的で健康な高校生だったと思っているし、そんな下らない青春の一つ一つは今でも大切に心に残っている。
僕は当時水泳部に所属していた。小学校に入る前から水泳をしていたが、高校1年生の冬に故障してしまいそれからはもっぱらマネージャー兼コーチ代理だった。テーピング、効率の良いトレーニング、栄養学などを勉強していたので、周りには部活の垣根を越えて純粋なスポーツマンばかり集まった。もちろん、僕も惜しげもなく知識を披露した。少しでも彼らの役に立つならば、と学校で習う勉強など放棄してスポーツ科学を学んだ。その努力の甲斐もあり、英語の点数はクラス最低の2点を取ったこともある。
「おい見てみろよ、2ってよく見たら白鳥に似てね?俺は白鳥になって華麗に飛び立つ!」とか廊下でふざけていた現場を英語の教師にバッチリ抑えられ、昼休みに廊下で晒し者になったのも、説教している先生の後ろで変顔をかまして僕を笑わせ、火に油を注いだアイツも今では全て懐かしい。
あの頃は下らない遊びの他に、次の試合に勝てば国体候補に入れそうだ、ベンチプレスで100キロ上がるようになった、シャトルラン何往復できるようになったとか、そういった話題でお互いを鼓舞しあったものだ。当時野球部だった佐藤は高校を卒業してプロ入りし、今ではたまにテレビで見かけるようにまでなった。あいつは僕が育てたと言っていいと思う。
僕を含めそのスポーツマン集団を内輪で「純白の会」と呼んでいた。理由は、みんな汚れなき体だったからだ。部活が恋人だとのたまってはいたが、性欲が抑えきれない盛りの彼らは内心うずうずして仕方なかっただろう。だが、残念なことに生まれてこの方彼女すらいなかった野郎の集まりだったので、傍目からすると健全にスポーツを愛する青年ばかりだった。合言葉は「裏切り者には死を」。
しかし僕には当時彼女がいた。
バレたら死ぬらしいので内緒の付き合いだったが、振られてからみんなに打ち明けた時はプロレス技の練習台にされた。
いくらなんでも友達にバックブリーカーかける?
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