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苦虫を噛み潰した夜
涼子が就職したのは、付き合い出して半年後だった。平日休みだったので、その日を空けるために他の日に授業を詰め込んだ。その頃の僕といえば、三年間のツケが回って来たおかげでフルで授業を取っていた。ほら、勤勉な学生でしょ。卒業単位ギリギリなだけなんだけど。
そういえばその頃、真面目な説教されたことがあったっけ。
大学三年生の最後の春、僕は就職活動というものが何となく嫌いで、周りがやっているから、という理由だけで体裁を保つためにやっていた。
シーズンになるとよくテレビで就活生のインタビューを見かける。やれ何社エントリーしただの、やれ何社落ち続けているだの。自分の今までを知らない大人に否定され続けるのってしんどくない?それならいっそ会社を作った方がいい、俺にはやりたいことがある、と酒の席で水泡のような夢をよく語った。当然ながらそんな殊勝な心掛けがあるはずもなく、目の前の最優先に解決すべき問題から逃げていただけなのだけど。
そんな折、見かねた彼女が行きつけの喫茶店で真面目な顔して話し出した。窓から射す西日が眩しかったのは覚えている。
「ねえ、将来のことちゃんと考えてる?毎日フラフラしてないでいい加減ちゃんとしなよ。そんな人とはこの先考えられない。」
面食らった。彼女は僕との未来を見据えてくれていた。僕自身、こういった話は生活基盤が整ってから切り出すもので、学生の身の上で語るようなものでは無いと思っていた。まあ、彼女はその時働いていたし、僕は僕で就職のことなんて微塵も考えていなかったけど、待っていてくれると勝手に思っていた。
もちろん、将来的には僕のお嫁さんになってもらいたかったわけではあるが、彼女は真剣に考えていてくれていた。僕が彼女を本気で思っていたように、彼女もまた僕を本気で思ってくれていたのだ。 それなのに、僕は此の期に及んでまだ逃げの一手を考えていた。
「ちゃんとやってるって。ホラ、今度はこの会社受けるんだ。」
初めて開いた会社のページを見せたりしてその場は凌いだが、この日の彼女の言葉で心を入れ替え真面目に就職活動に勤しんだ。
幸いにも僕の場合は労せず決まったので、今こうして安月給のサラリーマンをやっている次第である。
この日のやりとりも鮮明に覚えているわけではないが、僕を少し大人にしてくれたのは間違いなく彼女だ。親でも友人でもなく、彼女だ。本当に感謝している。
あの喫茶店にはそれっきり行ってない。
苦い思い出とかではなく、むしろそれは甘美なものだ。
単にコーヒーが不味いからなんだよね。
本当だって。
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