苦虫を噛み潰した夜

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僕達は会計を手早く済ますと、そのまま近くのラブホテルへと向かった。付かず離れずの距離を保ったまま薄暗い道を無言で進む。フロントで部屋を決める時もカナちゃんは喋らかったので、勝手に一番安い部屋のボタンを押した。 内装は綺麗とは言えないが、そんなことはおくびにも出さなかった。シャワーも浴びず乱暴に押し倒した。本当はスーツをハンガーにかけたかったが、僕の首元に回された細い腕は許してくれないみたいだ。汗とシャンプーの混ざった匂いを顔いっぱいに受け止めながら、勢いに任せてホックを外す。服を剥ぎ取るにつれ、手の平に収まるサイズの可愛らしい乳房や適度な肉付きの臀部が露わになる。「本当にいいの?帰るなら今だよ」聞くのは止めた。野暮なことだ。どうせ、今夜のことは無かったことになるのだから。 僕はまた間違えたのか。頭の中で重苦しい何かが渦を巻いていたが、どうしようもなくこの子が愛おしく、弱々しい、今にもこの世から消えてしまいそうな存在に思えて仕方がなかった。子供を想うように出来るだけ優しく、全部忘れるほど激しく慰めてやりたかった。 今僕の上で苦しそうに顔を歪ませ仰け反り腰を振る小さな子は、部屋に入った時から目を瞑ったままだった。きっと例の彼氏と僕を重ねているのだろうか。それでもいいか、それで君が前に進めるのなら。自分はその道具なのだ、と心で反芻する。それは決して浮ついた気持ちではなく、同情と憐れみが混ざったものだった。 同時に僕自身が「今を乗り越えようとしている女の子を平気で傷つける、自分に酔ったどうしようもないクズ野郎」に思えて仕方がなかった。 僕も目を閉じ気をそらす。お互い知らんぷりしよう。それでおあいこだろ。それが優しさなのかは分からないが、そうするべきだと思った。 静まり返った部屋に響く控えめな喘ぎ声は、僕の意思に関係なく耳に入る。それが溢れ出した快感の形なのか自己嫌悪から来る涙の代わりなのか、思考を放棄して上に乗った。彼女も目を瞑ったまま僕を受け入れた。 妙に俯瞰的な情事は終わり、疲れてしまったのかカナちゃんは一糸纏わぬまま寝てしまっていた。6時間後にはまた仕事が始まるので、ゆっくり休める様に丁寧に布団を掛けた。 薄暗く湿気が漂った部屋で深夜のつまらないバラエティを眺めながら煙草に火を付け、飲みかけのぬるい缶ビールを一気にあおる。きっと苦虫を噛み潰したような顔をしていただろう。そういえば、カナちゃんもこの匂いが好きとか言ってたっけ。なんだそれ、笑える。 朝、少し寝顔を見つめた後「先に出ます。遅刻すんなよ寝坊助!」と書置きだけ残して早めに会社へ向かった。 始業時間を少しだけ過ぎた時、『もう!なんで起こしてくれなかったの!朝ご飯も食べてないし遅刻ギリギリだったんだけど!!』と社内メールで寄越してきた。『いや、何回も声かけたわ。お前って本当起きないよね。逆にすごいわ、その才能。他人のせいにすんなよ。』と返すと、『迷惑かけてごめんね、つまらない愚痴に付き合ってくれてありがとうクズ野郎!』とすぐに返事が来た。『俺がクズならお前もだろ』といつもの様には言えず、そのままメールを閉じた。 見透かされたような「クズ野郎」に少しだけ動揺した。 「何もなかった」色のペンキで記憶を上塗りするのが暗黙のルールだろう。 今でも同期の集まりに顔を出すカナちゃんとは、その後特に何かあったわけでも気まずくなることもなかった。仲の良い普通の友達だ。 そういえば、彼女は今年の秋に結婚するらい。 例の彼氏ではなく、優しくて背が高くてスタイルのいい三つ上の会社の先輩なんだと。おめでとう。 人生とは塗り重ねだと思うことがある。好きな色、嫌いな色、得意な色、苦手な色、大切な色、不要な色。それらを命果てるまで塗り重ね、心地よいまどろみの中で一色ずつを懐かしく、口惜しく、温かく想いながら死んでゆけたら、それ以上の贅沢は無いと思う。 あの時はこんな色ばかりだったね、とか、あの色は初めて君と出会った時の色だったね、とか、あそこはぐちゃぐちゃに重なって何色かは分からないけれど改めて見ると中々様になってたね、とか。 あの夜は今も真っ白に塗りつぶされたままだ。少しだけ向こう側が透けて見える時があるが、そんなものは見えないふりをすればいい。 僕らは、今この瞬間もその上から思い思いに色を重ねながら生きている。だから、どうかもうそれをわざわざほじくって探そうとしないでほしい。君の思うようになるべく濃く塗り重ねて、そしていつか幕を降ろす時、思う存分楽しめる超大作を作れることを願う。 過去の過ちに想いを馳せ、考える。 僕が大人ごっこをしているガキのままなのかどうかは分からない。 涼子だけは分かってくれていた気がした。傷つくのを恐れてついにそれを聞くことはできなかったが。 電車は真っ暗な地下を走る。 深い深い闇の真ん中を突っ切って、僕を運んで行く。駅の明かりが見えてきた。 涼子は無事に家に着いただろうか。 既読はまだ付かない。
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