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六十年前の冬は現代よりも身体に深く刺さる冷気を持っている。寒さが違う。初夏からスリップしたから尚更そう思うのかもしれないが、現代の冬はこんなに寒くはない。
僕の手を引く赤い振袖の女性に目をやった。襟足の後れ毛が北風に吹かれ、首元が寒そうだった。結われた頭に咥えられた三連の赤の簪が、ゆらゆらと彼女の歩幅に合わせて揺れている。
街並みはレンガや木造の家が多く、道路も舗装されていない土が剥き出しのところもある。レトロな看板、現代のように印刷されたものではなく、味のある手書きの文字。ペンキ、雨雫と汚れが混じった雨垂れが時代の差を思わせた。
趣のある灰色の瓦屋根、ノスタルジックな喫茶店の前で足を止め、彼女は振り返った。
「ここまで来れば、大丈夫ですわ」
言葉と一緒に白い息が上がって、笑顔を浮かべた。懐かしい柔らかい笑い方に、ついつられて笑ってしまいそうになる。
「あ、あの……」
僕が声を出そうとすると、彼女は声を小さく上げ笑った。
「ふふふ、瑛助叔父さまではない事は分かっています。でも、本当に叔父様に似てます。お声も似てるわ。とても、他人とは思えないぐらい」
祖母の叔父に自分が似ているなんて考えもしなかった。でも、その事が幸いして、祖父の激しい追求から逃れる事が出来た。祖父は僕を警戒していた。彼に依頼されてこの時代に来たのに、まさかスリップ先の祖父に一番に疑われるとは。
早く目的を達成しなければ。
「あ、あの、不躾な質問で申し訳ないんですが、先程一緒に写真を撮っていた人物は誰なんですか?」
祖母は笑うのをやめて、え? と口角を下げてしまった。
「え、先程のお方ですか?」
「はい。写真館で一緒に撮影していた帽子の男性です。婚約者の方ですか?」
僕の問いに彼女は、周囲を見回し始めた。つられて僕も一緒に見回す。通りを過ぎていく人々が白い息を吐きながら、コートの襟を立て、マフラーに口を埋め足早に行き交っている。
「テレビ見た? えぬえーちけーの放送だぞ!」
「テレビなんて、家にあるわけない、あんなたけぇものっ」
「電気屋行こう、電気屋! 電気屋に見に行こっ」
坊主頭、学生服の少年達が言葉を交わしながら、走り去っていった。
「知り合いは誰も見当たりませんわね…」
彼女は小さく呟いた。つぶらな瞳と丸い鼻が僕に向いている。
「あの男性はわたくしの婚約者です」
「婚約者ですか…」
落胆を含んだ声が自分の口から白い息と一緒に上がった。祖父が思っていたように婚約者だったのか。
「驚きすぎじゃありませんか? あなた…まさか…」
まさか、にドキッとする。
「まさか、父の会社の人じゃありませんか? わたくしの秘密に気がついて、調べていますの?」
「いえ、違います。違いますよ。僕はたまたまあの撮影場所に居合わせただけで……」
上手い言い訳が思いつかないでいると彼女はまた、ふふふ、と小さく笑い始めた。
「冗談です。会社の人ならもっと上手くやりますもの。わたくしの尾行ぐらい簡単にしますわ」
穏やかな祖母の口から尾行や秘密など、穏やかではない単語が飛び出した。彼女は一体何を隠しているのだろうか、気になる。
「さっき、言ってた『秘密』ってなんですか?」
彼女は顔を顰めて僕を見た。
「…うっかり、言ってしまいました…。わたし、計画を立ててもいつも詰めが甘いんです…」
その言葉に、僕もなんです、と口が滑りそうになった。僕の詰めが甘いのは祖母に似ているのかもしれない。
彼女の話の続きを待っていると彼女は手招きして、耳許に口を寄せた。
「今からのお話は他言しないとお約束していただけますか? お父様に知られてしまったら縁談話が上手くいかなくなってしまうかもしれませんから」
その真剣な口調を受けて、僕は力強く頷いた。
「わ、分かりました」
祖母は、じゃあ、と口を開いた。
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