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「実はわたくし、一緒に写真を撮った婚約者のお方ではなく、写真館の坂巻俊明さんをお慕いしています」
じいちゃんの名前が出て、僕は緊張した。真実が聞けると思うと体が強張る。祖母は祖父を想って亡くなったと、信じてはいるがそれでも、違ったらどうしよう、と心臓が騒ぎ始める。寒い筈なのに僕の掌は汗をかいていた。
「婚約者と一緒に写真を撮ったのは父からの言いつけです。わたくしはお慕いしている俊明さんに婚約者と一緒に居る所を見られたくはなかった…でも、彼に会いたい気持ちが優ってしまい、仕方なく今日はあの場所に行きました」
祖母はそこで顔を伏せた。
「カメラ越しだったけれど、俊明さんが初めて真っ直ぐと見てくれました。十六歳の時、父に連れられて写真館に行った時、彼をこっそりとお見かけした時から想いを寄せておりました。けれど、わたくしには別に決められた婚約者の方が…。どうしても彼の視界に入りたくて、状況より気持ちが勝ってしまい…」
「それで、婚約者と一緒でもいいから、じい…じゃない、俊明さんの視界に入るために写真を撮ってもらった、と?」
僕の言葉に祖母は頷いた。
「おっしゃる通りです。まだ修行中で忙しそうにしてましたけれど、彼に初めて撮って貰ったあの写真は宝物になるわ」
「それって、その、俊明さんは知らないですよね?」
「もちろんです。俊明さんにとってわたくしはただのお得意様の娘。私はこっそり見ていたけれど、彼の視界に入ったのは今日が初めてです。だから、これから婚約者のお方と婚約破棄に行きますのよ」
「婚約破棄?」
彼女はいたずらを企んでいるように笑った。その後に、あ、と視線を行き交う人に向けた。祖母と一緒に写真を撮影していた帽子の男性が、黄色のワンピースにコートを羽織った女性と腕を組んで歩いていた。
「葉子さん」
帽子の男性が組んでいた腕を離して、祖母と僕に近づき会釈をした。僕も頭を軽く下げる。
「修さん、あの方がお慕いしている方ですか?」
祖母は黄色のワンピースの女性を見た。
「そう、彼女が僕の恋人です。葉子さん、破談に協力して頂きありがとうございます」
修さんは祖母に頭を下げ、被っていた帽子を軽く上げた。
「え?」
僕の声に祖母は穏やかに笑った。
「婚約者の方にも別にお慕いしている女性が居るのです。わたしと彼と彼女、三人で今からお父様の所に行きます」
「葉子さんには自分のお父様に泣きつく演技をしてもらう。僕が婚約者以外の女性を好きになった事を強調して婚約破棄したことにすれば、葉子さん側に傷がつかないからね」
「すみません、修さんを悪者にしてしまって」
「いや、いいです。僕も婚約をした時にすでに恋人が居たのに、実家の融資の件が落ち着くまでは黙っておこう、と葉子さんのお父様の会社の力に頼ろうとしていましたから。お互い様です」
「ご実家の和菓子屋さん、盛り返してよかったですね」
「ええ、本当に」
僕は二人の顔を交互に見た。男性は、それじゃ先に滝沢邸に向かってます、と頭を下げて立ち去った。
「婚約者は居たけれど、俊明さんが好きなのは間違いないって事ですか?」
問いかけに祖母は頷いた。
「元々、わたしの兄とお父様は、俊明さんのお父様と将棋仲間で顔見知りなのです。破談された可哀想な娘を演じて、お父様に俊明さんの事を懇願すれば、話はうまく転ぶと思いません?」
僕は呆気にとられた。
「びっくりしました? 女の人は意外としたたかなのです。好きな男性と一緒に居るために企んだりします」
祖母の秘密は祖父と一緒になるためだった。僕が信じていた通り、祖母は祖父を想ってあの手紙を書いたのだと納得できた。しかし、写真を撮った経緯を秘密にされていた祖父の気持ちとしては不安だろう。
祖父は祖母がモノクロ写真の帽子の男性をずっと好きだったのだと思い、手紙も彼に向けて書かれたものだと思い込んでいた。
「女の人がそんな風に考えているのはびっくりしました…でも、言ってくれないと男の人は一生、分からないままじゃないですか?」
六十年後、祖母の秘密のせいで祖父が悩んでいるとは言えない。過去は変えられないが悩みを抱えた病床の祖父のことを考え、思わず祖母を責めるような口調になってしまった。言い方に棘があったからか、祖母は一瞬だけ眉を寄せた。
「そうですね。好きなら何をしてもいいだなんて、許されないですよね。でも、俊明さんは女の方が苦手なのか、お話するときも目を合わせてもくれなくって、私を完全にお得意様の娘扱い。ずっと見てたのに……女の人は自分の気持ちを察してほしいんです。言われる前に気づいてほしい…なんて、ワガママですね」
祖母は、ふふふ、と笑って、覗き込むように僕を見た。
「貴方には、そんなお方はいらっしゃらないのですか?」
女の人は自分の気持ちを察してほしい、言葉を反芻する。僕は妻に対して、言ってくれないと分からない、と受け身の姿勢だった。彼女が何を考えているか尋ねもしなかった。気持ちは言葉にしないと相手には伝わらない。
祖母が祖父を想って手紙を書いていても、はっきりと、坂巻俊明宛て、と記していないと、本人は受け取りようがない。おまけに、写真も自分が写っていなければ勘違いしてしまうだろう。祖父が撮った写真だから、祖母は大事にしていたなんて、撮った本人が忘れていれば、事実として写真に残るものは知らない男性と映った自分の妻だけだ。
僕に残されたのは離婚届と外された結婚指輪。それについて怖くて触れられなかった。電話も出来なかった。
「僕は…」
自分の口から、情けなく弱々しい声が出た。残された物に怖くて踏み込めない。
「僕は…妻の気持ちが分からない。実は、妻に家を出て行かれまして、情けない事に理由が思いつかないんです」
祖母は、まぁ、と口に手を当てた。
「結婚してらしたのですね。結婚してどのくらいですの?」
「二年です。結婚記念日に居なくなっていました。指輪も置いて、離婚届を残して」
「…奥様とお話はされたのですか?」
彼女はつぶらな瞳で僕を見上げた。痛い所を突かれた。
「いや…していません」
否定の言葉を聞いて彼女は神妙な顔を浮かべた。外の冷気に頬と丸い鼻が赤くなっている。僕の指先も少し悴んできた。
「奥様に勇気を出して家を出て行った理由を聞いてみたらどうでしょうか? 愛想をつかしてしまったのなら、わざわざ記念日に分かるように家を出て行ったりしません。わたくしなら日を選ばずに出て行きますわ。結婚指輪も捨てます」
祖母は僕が思っていたより行動派だった。その容赦ない返事に思わず笑ってしまった。
「ばあちゃん、婚約破棄とか、秘密隠してたり、指輪捨てるなんて、思ったより、アグレッシブなんだね」
「…ばあちゃん?」
思わず口から吐いてでた、二十歳前後の振袖を着た女性に似つかわしくない呼称に彼女は首を傾げた。
「あっ、いや、違います。えっと、僕のばあちゃんも同じアドバイスくれるかなって、不意にばあちゃんを思い出しただけで、えっと、そ、そのすみません」
しどろもどろに返事をしていると、祖母は柔らかく笑った。
「こちらこそ、結婚もしてないのに生意気を言って申し訳ありません」
よく知る祖母の笑顔だった。彼女は笑って僕に手を伸ばした。
「なんだか…叔父様に似ているせいか、初めて会った感じがしませんね。やっぱり、どこかでお会いしたかしら? お名前は?」
彼女が僕の手を取った。ふくふくとした肉厚の小さい掌をしていた。しわの代わりにハリがあるけれど、よく知っている手。昔、何度も頭を撫でてくれた。懐かしい気持ちが浮かぶ。臆病な僕は、その掌に安心と勇気を貰っていた。
「…坂巻瑛太、です」
「坂巻…不思議な縁ね」
祖父が知りたかった真実は祖母から得ることが出来た。おまけに祖母から自分に起きた事実に向き合う勇気を貰った。今度は僕の番だ。祖母から離された掌をグッと握って、彼女の顔を見た。
「僕も事実から逃げずに、妻と向き合って話をしてみます」
電話を掛けても出てくれないかもしれない。
そして、出てくれたとしても告げられる真実は残酷かもしれない。でも、話し合って踏み込んでみないと前には進めない。
「ばあ…じゃない、よ、葉子さーーー」
祖母にお礼を言おうと僕が口を開けると、後ろから大声で呼ばれた。
「おいっ! そこのお前っ!」
聞き覚えのある、掠れた低い声に怒鳴られる。振り返ると祖父が血相を変えて僕を見ていた。
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