モノクロファクト

13/16
前へ
/16ページ
次へ
*  病院に嬉しい気持ちで向かったのは生まれて初めてだった。祖父の家で着替えた後、駆け足で、白い壁に囲まれた目的の場所に向かう。時間にして二時間も経過してはいない。病院と祖父の家を往復しただけだ。しかし、スリップした事で長い時間が過ぎてしまったかのように思う。赤銅(せきどう)色の扉を叩いて返事を待たずに開けた。 「じいちゃんっ! …って、お客さん」  見覚えのある人物と祖父が話していた。病院を出るときにエレベーターですれ違った老人男性。祖父と同世代ぐらい。帽子を脱いでいた。耳が大きい。ソファに座っているから背の高さは分からないが座高も高く、腰掛けた脚もスラッと長い。それ以外でもどこかで会ったような……なぜだか、親近感を感じる。 「あぁ、瑛太」  祖父は顔を上げてふっと笑った。眉間にシワは刻まれているが僕を警戒はしていない。僕は老人にお辞儀をして、祖父の家の鍵と写真、手紙が入ったビニール袋を鞄から取り出した。オーバーベッドテーブルの新聞の上にそれを重ねて置いた。 「…あれ? この写真」 老人は僕の取り出したものが視界に入ったのか、ソファから立ち上がって覗き込んだ。彼の顎が視線の高さになる。 「葉子と修くんだ。懐かしい」 「あ…」 見たことがある人に思えたが、関係性をはっきりと思い出せなかった。僕のその態度を察してか、老人は口を開いた。 「私は葉子の兄だ。瑛太くん、久しぶり」 「ばあちゃんの兄…お久しぶりです」 祖母の葬式に参列していたが、三回忌には確か体調が優れず欠席していた。三年前に見かけて会話も交わさなかったため記憶の隅に追いやられていた。 「この写真、どこにあったんだい?」 彼はそう言って祖父を見た。 「ばあさんの箪笥の着物の間に挟まっていた」 「はは、そうか。葉子らしいな」 祖父は眉のシワを寄せた。 「この写真を知ってるのか?」 「知っているさ。横に居るのは葉子の元婚約者の修くんだ。あれ? この写真を撮ったのは俊明くんだから君も勿論、知ってるだろう」 祖父はますます眉を寄せて、口角を下げた。腕を組み写真を凝視する。 「いや、覚えがない。見習いで必死だった時期か……?ばあさんと初めて会ったのは彼女が二十歳(はたち)の時だ。親父に紹介されたのが初めてだった気がするが…」 「そうだったかい? 葉子がこの写真を撮った時、煩かったのを今でも覚えている。好きでもない男と一緒に写った写真だが、初めて俊明くんの視界に入った記念写真だ、一生大切にする、と。何度も自慢気に見せられたからよく覚えている」 祖父は目を見開いた。僕が過去で祖母から聞いた話の通りだった。祖母の兄は目を細めて楽しそうに話を続けた。 「懐かしいなぁ…、将棋の寄り合いで坂巻さんと父が話していたのを覚えてるよ。葉子は大人しそうに見えて、お転婆だから、婚約者の修くんより穏やかな俊明くんの方が性格が合うんじゃないかって。でも、家同士で縁談を結んでいたから当時は破談だなんて、よっぽどの事がないと考えられなかった。お互い苦しい時に出資し合っていたからな。持ちつ持たれつの関係での婚約破棄は裏切りに近いと思ったんだろう」 「縁談話は相手の男の都合で白紙になったと親父からは聞いたが…」 「そう。表向きでは。あの時代、女性が原因で婚約破棄となると、次の相手の男性が中々見つからない事を葉子は気にしていた。だから、俊明くんとの縁談話に持っていくために、この写真の修くんに相談した」 「この婚約者はばあさんの事を好いてなかったのか?」 「婚約前より恋人が居たと聞いたけれど。二人は恋人と言うより、私には悪だくみを一緒に考えている戦友のように見えたね。この写真を撮りに行く日なんて、ああ、そうだ、人生が変わるだとかなんだとか言っていた」 祖父はそこまで聞いて腹の奥底から湧き上がったようなため息を吐いた。安堵とも取れるため息に僕はなぜかほっとした。 「じゃあ、わしが撮った写真だから、ばあさんは大事に持っていたって事か?」 祖父は眉をキュッと中央に寄せた。さっきも見たその表情に笑ってしまいそうになる。 「じいちゃん、この写真はばあちゃんの秘密だった」 「秘密?」 祖父は益々眉間にシワを寄せて、祖母の兄は笑い声を上げた。 「あ、葉子がそれ言ってたかい? 我が妹ながら中々、企んでた。俊明くんの視界に入るためにはまず写真に写る事から始めて、婚約破棄のために元婚約者と茶番を繰り広げて。そして、将棋仲間だった私と俊明くんのお父さんの関係を利用して、俊明くんとの縁談話を強引に進めさせたんだ。傍迷惑な妹だよ」  祖父は首を傾げて、じゃあこの手紙は、と机の上に置いたビニール袋から黄ばんだ封筒を取り出した。その手紙を祖母の兄に手渡す。彼は受け取って、手紙に目を通した。 「はは、詰めが甘い葉子らしいな。手紙を書いても、宛先がないと誰宛てかはっきりしないが、これは間違いなく俊明くん宛だ。十六の時から好きだと書いているだろう。この時に初めて父に連れられて写真館に行って俊明くんに出会ったと言っていたからな、恥ずかしくて遠くからしか見る事が出来なかったと悔しがっていたよ」 祖母の兄は笑って僕を見た。 「葉子は俊明くんが大好きだった。自分の気持ちに気づいてくれない、写真を撮った事も忘れてるんじゃないかと写真を見て一喜一憂していたのが懐かしい」 彼の言葉に僕は頷いた。 「察してほしいって言ってました」 僕の言葉に祖母の兄は頷いた。 「よく言ってたな。男なんて察することが苦手で、言われないと分からないのに、我儘な妹だ」 苦笑いを浮かべ、持っていた手紙を祖父に差し出した。 「じゃあ、この手紙はわし宛て?」 祖父は少し気の抜けた声を出した。 「うん、そう言ってたよ。十六歳の時からじいちゃんのこと好きだったって。じいちゃんの視界に入るために写真を撮って貰った。それが宝物になるって言ってた」  その言葉を聞いた祖父は、そうか、とだけ言葉を発し眉間のシワを伸ばした。穏やかな笑みを浮かべる。  その笑顔は柔らかに笑う祖母に似ていて、本当に二人はお似合いの、似た者夫婦だと思った。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加