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病院は足を踏み入れる前から目的地にした時点で気が重くなる場所だ。人間のマイナスな感情、後悔、哀しみ、怒り、遣る瀬無さを無情に見つめてきた、くすんだ白い壁に囲まれた場所。行きたくて向かう人間が、どれくらいいるのだろうか、と思う。やむを得ず向かう人が多いその場所に、僕は祖父に呼び出された。
昨日、妻が残した離婚届と指輪には怖くて触ることができなかった。疑問とパニックが混ざり合った感情を抱え、そこに中途半端な蓋をして、呼び出した人物の病室に向かう。
白い壁の間にぽっかりと浮くように点在する赤銅色の扉を恐る恐る叩いた。
「はい、どうぞ」
掠れた低い声の返事。念の為、病室の名前を確認した。坂巻俊明。祖父の名前だ。縦に伸びる取手を掴み、ドアをスライドさせると、記憶よりも一回り小さくなった彼の姿が目に入った。病衣を身につけ、点滴をして、頰は痩けている。
「…じいちゃん」
なんか、痩せたな。
その言葉は口に出してはいけないような気がした。社交辞令として病人には、思ったより元気そうだな、と言うのがセオリーだと聞いたことがある。しかし、先々週に訪れた時より明らかに窶れているように見えた。
僕の顔を見た祖父はふっと、溢したような笑みを浮かべ、来たか、と読んでいた新聞から顔を上げた。銀縁のメガネを外した顔が見慣れたものであった事に安堵して口を開いた。
「思ったよりーーーー」
その先は言わなかった。彼が激しく咳き込んだから、正しくは言えなかった。近寄って、背中をさすると角張った背骨が肉の無さを物語っていた。骨の硬さと近さに、呼ばれた意味を薄っすらと感じた。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ…っ、すまん。ゴホッ、だ、だいじょ、うぶだ。時々、ゴホッ、咳き込む、だけだ、すこ、し、経てば、収まる」
言葉の通りベッドで上体を起こした彼の背中をさすっていると、咳は収まり、目もしっかりと僕を捉えた。眉間と目尻に刻まれた皺が、生きてきた時を思わせ、耐えきれなくなり目を逸らした。
祖父から離れて、立ち上がり、病室内を見回した。部屋には消灯台、オーバーベッドテーブル、僕の身長1.7m程の柑子色のソファ。壁にはピカソの絵を模したような、幾何学的なデザインで、原色の激しい色が、額縁の中に飾られていた。
窓の向こうに目を移す。色を濃くした芝の上を、車椅子に乗った老婆が娘ぐらいの中年の女性に押されて、移動していた。近くに幼い子供も居て、彼女の車椅子の腕置きに手を伸ばしていた。
「…瑛太。わざわざ、呼び出して、すまんな」
祖父は覇気のない弱々しい声で僕の名前を呼んだ。振り返って彼を見ると憂いを含んだような顔で笑っていた。
「…じいちゃん、だいぶ悪いの?」
「…そう、だな。良くはない。…医者にはもう家には帰るのは難しい、と言われた」
「そう」
適切な返事が浮かばすに、相槌を打った後の言葉が出なかった。
「…瑛太、仕事はどうだ? 美由紀さんと仲良くやってるか?」
その名前に昨夜の記憶が蘇った。蓋をした気持ちが湧き出る。
「仕事はまぁ、普通。美由紀は…家から出て行った」
祖父は、え? と顔を顰めた。先程の僕と同じように、言葉を探しているようだった。
病室内に重い沈黙。梅雨が明けて、外の木々は太陽の光を浴び輝きを増し、芝は緑を増しているのに、この一室だけまだ雨に降られているような雰囲気が漂う。
「出て行った、か。…理由はあるのか?」
「…さぁ? 昨日、仕事から帰ったら、もう家から居なくなっていた」
祖父は困ったような表情を浮かべて、消えてた、と呟いた。僕は窓に手を伸ばした。鍵を開けて、ガラスをスライドさせると、窓は指一本分の隙間しか開かないようになっていた。臆病な窓だけれど、病院の危機管理としては正しい。
「そこの窓は開かないようになってる。まぁ、座れ」
ソファを指差され、腰掛けた。見た目より柔らかく、腰が思ったより沈んだ。
「で、じいちゃんが僕だけ呼んだのは何か理由があるの?」
昨日、彼に電話を貰った。内容は1人で病室に来て欲しいとのことだった。祖父の実子の父も、母も、兄も、姉も呼ぶな、と言われた。その内容に疑問を持ちつつ、妻が家から消えた事が僕の冷静な判断を奪っており、電話を受けた時は、分かった、の返事で済ませていた。
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